あるかもしれなかった。このごろの江戸の暑さといったら、なかった。煮るような、空気の動かない日が続いていた。しかし、ほんとのことをいうと、お久美は、暑さにはわりに強いのだった。夏のきらいなのは庄吉で、かれはよくこの暑さにお久美が平気なのを、感心したり、不思議がったりしていた。
 お久美は、浴衣の襖に埋めていた頤を、上げた。きっと前を見つめるような眼つきになった。
 何がじぶんの心に黒くのしかかっているのか、今朝起きた瞬間から、かの女は知っていたのだった。知っていながら、それに触れることを怖れて、ほかの原因をみつけようとつとめたのだが、それがいま、すっかり失敗に終って、お久美は敢然と顔を上げて、そのものに直面しなければならなかった。
 ばかばかしい気がして、かの女はちょっと恥かしかった。それほど、詰まらないことだった。取りとめのない、愚にもつかないことだった。それが、こんなにまで鉛いろの恐怖を呼んで、一日じゅうかの女を把握していたのだった。
「まあ、わたしとしたことが」お久美は、自分に呟いた。「何でしょう、馬鹿らしい。でも、よく考えてみなければならない。ばからしいということを、しっかりじぶんに言い聞かせなくては――。」
 気がつくと、ぼんやり口をあけて、固く両手を握っていた。掌《て》には、冷たい汗があった。
「何も恐いことはない。思い出すようにしてみましょう。」
 ひとり言が、逃げた。

 ゆうべ夢を見たのだった。また、あの夢だった。
 何年か前、少女のころからだったように覚えているが、ああ毎晩のようにかの女に現れて親しかった夢を、昨夜久しぶりに見たのだった。が、夢それじしんは、べつに変った夢ではなかった。しかし、親しかったとはいっても、昔つづけさまにかの女の小さな枕を訪れて、そして、いつもすこしも違わない内容なので、ほとんど現実のように、いや、むしろ現実以上に慣れていただけのことで、お久美は、その夢が嫌いだった。子供ごころに、訳もなく恐しかった。毎晩のように、この夢に襲われて、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた末、泣き叫んで眼をさましたものだった。それが、この十年ほどとんと見なくなって、かの女はすっかり忘れていたのだった。忘れてはいなかった。時どき人の夢のはなしなどに関聯して、思い出すことはあったが、ぼやけた、遠いものとして、ほかの幼い日の記憶のなかに
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