《ふきだ》しそうに歪んでいた。自分の生れるまえから相識《しりあい》のような、なつかしいものに思われる顔だった。痩形の若い男だった。
 お久美は、じっとしていた。ほほえみ返していた。その男の呼吸《いき》を頬に感じた。口びるを、口びるに感じた。恐しい気もちはなかった。これが不義というものなのか、と、噛みしめるように味わって、感覚の通り過ぎるのを待っていた。が、急にかの女は、これはいけない、こういうことはあるべきではない、と強い意識が働き出して、たましいとからだの全力を絞って男の抱擁から逃れようともがいた。男の胸に両手を突っ張って、離れるが早いか、薮といわず、石原といわず、大声に叫んで走り出した。暗いむこうに明りが見えて来て、じぶんを呼ぶ声が耳のそばでした。
「どうした。」
 暑いので、開け放した縁からの月光に、蚊帳《かや》が揺れていた。お久美のうえに、庄吉の顔が大きくひろがっていた。
「あの人、あの人がまた来たんです。」
 庄吉は、部屋のあちこちへ眼を走らせた。
「あの人? 誰も来やしないよ。」
「夢なんです。」微笑して、「何刻《なんどき》でござんしょう。」
「何どきにも何にも、いま寝たばかりだ。お前は、枕に頭をつけたかと思うと、すぐうなされ出したのだよ。」
「嫌な夢。あの人は、これからまた毎晩のように来るでしょうよ。」
 庄吉の表情に、嫉妬に似た、真剣なものが来た。
「話してごらん。」
 眠りから覚めたばかりの半意識のうちに、何をいったか、お久美は気がついた。
「何でもございません。ばかばかしい夢。」
 深い眼をしてお久美を見つめたきりで、庄吉は、追究しようとしなかった。
 枕をならべて眠《ね》ている子供たちをみてやったのち、お久美は黙って、また寝《しん》に就いた。

      四

 つぎの朝、蒼い顔で起き出たお久美は、庄吉がおもての店へ出て行ったあと、きのうのように、自分とじぶんに対坐するような心もちで、茶の間にすわった。
 かの女は、庄吉のまえに、拭い切れない罪を犯したような気がして、じぶんが、自分のからだが、不潔なものに思えてならなかった。庄吉も、なんとなくあの夢を感づいて、ゆうべから、急に夫婦の間に溝ができたのではなかろうか。不安と憂鬱が、鞭のようにかの女を打ちのめしていた。自分の識らないうちに、恥ずべき大きな秘密を背負わされているといった感じだった。お久
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