夢の殺人
浜野四郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瓢箪池《ひょうたんいけ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十二|燭《しょく》の電気

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「どうしたって此の儘ではおけない。……いっそやっつけちまおうか」
 浅草公園の瓢箪池《ひょうたんいけ》の辺《ほとり》を歩きながら藤次郎は独り言を云った。然し之は胸の中《うち》のむしゃくしゃを思わず口に出しただけで、別段やっつけることをはっきり考えたわけではなかった。ただ要之助という男の存在のたとえなき呪わしさと、昨夜の出来事が嘔吐を催しそうに不快に、今更思い起されたのである。

 藤次郎が新宿のレストランN亭にコックとして住み込んだのは今から約一年程前だった。
 彼は二十三歳の今日まで、殆ど遊興の味を知らない。実際彼は斯ういう所に斯ういう勤めをしているには珍らしい青年である。彼の楽しみは読書だった。殊に学問か、それでなければ修養の本を、ひまさえあれば貪《むさぼ》り読んだ。
 レストランN亭のコック藤次郎は、いつかは一かどの弁護士になって懸河《けんが》の弁を法廷で振うつもりでいた。元より彼には学校に通う余裕はない。従って独学をしなければならなかった彼は可なり以前から××大学の講義録をとって法律の勉強をしていたのである。
 斯ういう真面目な青年の事だから主人の信用の甚だ厚いのは無論である。それ故、一定の公休日でない今日、彼が一日のひまを貰って浅草公園を歩いているのは大して不思議な事件ではないのだ。
 けれど、遊興もしなければ大酒も呑まぬ藤次郎が、真剣の恋を感じ始めたのは亦決して不思議なことではない。彼も人間である。而も未だうら若い青年である。
 その恋の相手は矢張り同じレストランに八ヶ月程前から勤めている美代子という若い女だった。美代子はN亭に来る迄、可なり多くの店をまわって来た。しかし、藤次郎のような真面目な、有望なコックには未だどこでも会ったことはなかった。
 藤次郎は美代子がN亭に来てから間もなくひそかに恋し始めた。そうしてだんだん彼女を思いつめて行った。けれども彼が彼女にはっきりと心の中を打ち明ける迄には相当の時がかかった。無論誰しも斯ういう気持をそうたやすく言いだせるものではない。然し真面目で一本気な彼の場合には特に愛の発表は難事であった。
 やっとの思いで恋を打ち明けた時、藤次郎は、こんなことならもっと早く云うんだったと感じた。それ程、美代子は、簡単に而もはっきりと、彼にとって甚だ有難い返事をしてくれたのである。彼は有頂天になった。彼女と同じ家にいることが勿体ないような気がして来た。彼は一寸のすきにでも彼女と語って居たかった。彼は勿論主人や他の女給などのいない時を狙っては美代子と語った。けれど彼女の方は割合大っぴらだった。他人がいてもはっきりと彼に好意を見せてくれた。是が又藤次郎にとってはひどく嬉しくもあり、はずかしくもあった。
 斯うやって二ヶ月程は夢のようにたってしまった。ただ最後のものだけが残っていたのである。だが、之は藤次郎に最後の一線を越す勇気がなかったのではない、と少くも彼自身は考えていた。機会がなかったのである。機会さえあれは美代子は完全に彼のものとなっていたろう。彼はただ機会を待っていたのだ。
 所が、今から半年程前に、彼にとって容易ならぬことが起った。即ち要之助の出現がそれであった。
 要之助は、N亭の主人の遠い親戚の者であるが、今度店の手伝いとして、田舎からでて来たのだった。彼は真面目さに於いても、有望さに於いても殆ど藤次郎と匹敵した。然し其の容貌に於いて、藤次郎とは全く比較にならぬ程、優れていたのである。
 藤次郎は決して立派な顔の持ち主ではなかった。実をいうと、彼が美代子に対して恋を打ち明けるのに、一番ひけ目を感じていたのは自分の顔であった。どう贔屓目《ひいきめ》に見ても彼を美男とは云えない。非常な醜男《ぶおとこ》ではなかったけれど決して美しくはなかった。
 反之《これにはんし》、要之助は水準を正に抜けでた美青年である。濃い眉、高い、筋の通った、然しながら鋭くないなだらかな線を有《も》った恰好のよい鼻、それにそれ迄田舎の日の下にいたとは思われぬ其の皮膚の白さ、そして豊かな双頬、之等が寄って要之助の顔を形造っているのである。
 要之助は藤次郎よりは二つ年下だった。だから若し藤次郎が、要之助の美貌に対して、甚しく心を動かしたとしても少しも無理はないのだが、不幸にして事実はそういう方向に向っては発展しなかった。否、藤次郎は、此の美青年をはじめて見た時に既に或る不安を感じたのである。
 此の感じははたして事実となって現われた。要之助の美貌は同性の心を動かすより何より異性の美代子の心を動かしてしまった。
 彼がN亭に来てから二、三日の中に、既に藤次郎は、美代子が要之助にちやほやするのを見なければならなかった。ただそれだけならば未だいい、美代子は今までの態度を全然変えてしまった。藤次郎は彼女からみむきもせられなくなって来たのである。
 無論、彼は煩悶した。焦慮した。そしてその苦しみの中に在って彼は頼りにならぬものをひたすらに頼った。それは要之助が、まだ若くて初心《うぶ》だということと、彼が非常に真面目な青年だということだった。
 藤次郎の頼みは忽《たちま》ち裏切られた。要之助がまだ若く、初心でまじめであることがなおいけなかった。生れてはじめて、都会の美人に惚れられた(と少くとも要之助と藤次郎は考えたが)要之助は、まもなく彼女の媚態に陥って、彼の方からも可なり積極的な態度に出はじめて来たのである。
 斯うやって藤次郎にとっては、悩みの幾月かが過ぎた。勿論彼はあらゆる手段で美代子の気もちを自分の方にひっぱろうとした。けれどもそれは全然無駄骨だったのである。
 けれど彼は自分の心もちと、かつて自分に対してとっていた美代子の態度からおして、まさか彼等が完全に許し合っているとは信じなかった。又信じたくもなかった。然るにこの彼の考えを根柢から動かすようなことが最近に持ち上ったのである。
 今から約一週間程前の或る夜半《よなか》だった。いつもは昼の労働にまったく疲れて――読書は近頃は到底やれるものではなかったが――死人のように熟睡する藤次郎は、其の夜、二時頃に突然の腹痛で眼がさめた。
 彼は暫く半眠半醒の状態で床上に苦しんでいたが、はっきり眼がさめるとあわてて厠《かわや》にとびこんだ。斯ういう場合、誰でも比較的永く厠にいるものである。彼はようやく苦しみがおさまったのでまず一安心して出ようとした。
 すると其の時二階から階段をそっと降りて来る足音がきこえて来た。そうして全く降り切ると彼のいる厠の側を人が通る音がして軈《やが》て彼のねている部屋の障子をしめる音がした。
 此の時藤次郎ははじめて、さっき彼が眼をさました時、いつも傍に眠っている要之助が床の中にいなかったことを思いだした。
 藤次郎が部屋に戻って寝どこに入ると、要之助はちゃんとそこに眠っている。藤次郎は稍々《やや》おさまった腹をなでながら考えた。はじめは、
「奴、又ねぼけやがったな」
 と感じた。
 今彼の傍に美しい寝顔を見せている青年には不幸な病気があった。それは夢遊病である。かつて国許にいた時、夜半にまきざっ棒を以て突然側にねていた父親を殴ったことがあった。おこされてから彼は何もしらなかった。何でも其の宵に、地方を廻って来た或る劇団の剣劇を見たのだそうだ。無論それまでにも彼がねぼけるのは屡々だったが、今までそんな烈しい例はなかったのでそれ以来、家では大いに警戒して彼の寝る部屋には危険なものは一さいおかぬことにきめた。
 N亭に来たときもそのことはかねてから主人に聞かされていたが、藤次郎が要之助の夢遊病の状態を見たのは未だ一回しかなかった。
 夜半に水道を烈しくだす音が余り長くやまなかったので主人が出て来て見ると、要之助が足を洗っているまねをしていた。烈しく殴って眼をさまさせた所、彼はまったくねぼけて水を出していたのだった。
 藤次郎は其の有様を見ていた。そして主人と一緒になって彼を殴ったのだった。
 藤次郎はその時のことを床の中で思いだしたのである。然し、次の瞬間に又誰かが上から降りて来る足音を聞いた。その足音は厠の辺で止り、ガタンと厠の戸をあける音が耳に入ッた時、藤次郎は急に妙なことを想像した。
 再び戸が開く音がしてそのまま二階に戻るかと思っていると、それがずっと藤次郎のねている部屋の前まで来た。そうして暫く静かになった。外の人は中の様子を窺っているようだった。
 藤次郎はちらりと要之助の方を見た。要之助は彼に背中を向けているが眠っているらしい。すると突然障子の外から、
「要ちゃん、要ちゃん」
 とささやくような声が聞えた。藤次郎ははっと思った。それは美代子の声だった。
 然し要之助は身動きもしない。
 すると外で、
「要ちゃんてば……もうねちゃったの」
 という声がきこえたかと思うと、そこを離れる気色《けはい》がして足音はすうっとそのまま、二階に上ってしまった。
 まだしくしく痛む腹をおさえながら藤次郎は暫く天井を見ていた。軈て要之助の方を向いて、
「おい君、君」
 とよびかけた。けれど要之助はこのとき真に眠っていたのかどうだったか、兎も角、全く知らん顔をして眼をつぶっていた。
 若し此のとき、要之助が、藤次郎に対して返事をするか、又は藤次郎が彼をゆりおこすかして、当然二人の間に或る会話が取り交されたならば、或いは二人の中の一人が、生命を失うようなことにはならなくてすんだかも知れない。然しとうとう要之助は目を開《あ》かず、藤次郎もそれ以上、彼を起そうとはしなかった。
 翌日、藤次郎は腹痛と称して終日ねた。
 彼は腹よりも胸が苦しかったのである。凡てはめちゃめちゃになったように思えた。
 それでも未だ、彼はもしや、と考えた。藤次郎にとっては同じ屋根の下にいて、而ももう一人の女給と同じ部屋にねている美代子の所へ、要之助が忍び入るという事は一寸考えられなかったのだ。
 それから彼はどうかして事実をつきとめようと決心した。しかしその後何ごともなかった。尤も藤次郎は決心はしながらも、じきに深い眠りに陥いってしまうのが常だったが。
 ところが昨夜《ゆうべ》の出来事はもうどうにも何とも云いようがなかったのである。
 彼は真夜中頃に突然目がさめた。
 パチンと誰かが彼の頭の上にいつもついている十二|燭《しょく》の電気を消したのである。明るい部屋が突然暗くなったので、却って彼は目をさましたのかもしれなかった。
 その時その闇の中ではっきり彼がきいたのは要之助が、
「なーに、かっぱさん、豚のように眠ってるよ」
 という声と誰か他の人間がくすりと笑う声であった。

 秋の日かげはうららかに射している。
 藤次郎は燃えるような胸の焔をいだきながら浅草公園の池の辺を歩いている。
 何ともかとも云いようがない。それにわざわざ……。
 虫も殺さぬような顔をした要之助があんな図々しいことを云ったり、したりするとは思わなかった。女も女だが男も男だ。奴は全く食わせものだったのだ。いやに真面目らしくおとなしく振舞っていたのは女をひっかける手段に過ぎなかったのだ。田舎にいる頃、あれでは何をしていたか判ったものじゃない。
 斯う考えた時、藤次郎は百足《むかで》でもふみつけたような気持に襲われた。
 今朝、国から来た友達をつれて東京見物をさせてやるから、という好加減《いいかげん》な口実を設けて一日のひまを貰った時、主人にいっそ昨夜のことを告げてやろうかとも考えた。然しそれは自分にとって余りいい結果をもたらさないかも知れない、他の方法で要之助が存在しないことになれば或いは局面が一転するかも知れない、と思って彼は何も云わなかったのだ。
 昨夜殆ど眠れなかったために、一日さぼろうと思った彼は、秋の一
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