なたがしたとは云いません、群集がです。しかしその群集を犯人が呼ぶことは出来た筈です。少くとも彼が唖でない限りはね。事実あの時調べられた人々は一斉に『声をきいてかけつけて見ますと』と云っていますよ。つまり犯人子爵は相手が死んだのを見定めてから先ず弥次馬を呼ぶ、そして自分は直ぐ目の前の検事局に恐れながらととび込んで来るのです。過失はともかく、どうして故意を疑いましょう。誰が殺人事件だと思いましょう。驚嘆すべき腕まえです。
然し之は皆例の小説家の空想ですよ。アハハハ、一寸面白いでしょう。おや? どうかなさいましたか」
この時、今まで青い顔をしてきいていた伯爵細山宏はふらふらと立ち上ったがドアにようやく手をかけながら、
「嘘だ嘘だ、人殺しなどと。――けしからん、あいつ……自殺だ、自殺だ!」とあえいだ。
「お帰りになるならもうお帰りになってよろしい」
うす気味悪い笑をたたえてドアを助けて開けてくれた大谷検事を後に、よろめくように伯爵は廊下に出た。
三
それから一週間たってからのある夜、伯爵は日記の中に次のような感想を認《したた》めていた。
「驚くべきは大谷検事の推理だ。若くは想像だ。全く俺の考えた通りの事を云っている。而も自信に満ちたあの態度! 全く俺はあの通りの計画をしてあの日あの場所まで行ったに違いない。しかし、自然のする皮肉を、われ等の頭の力で見通せると思うか、俺も誤って居た。しかし検事も俺同様の誤算をしていたのだ。
俺が中条の身体めがけて車をぶつけようとした刹那だった。不意に中条の方がよろよろとして俺の車の方向にとび出して来たのだ。現在殺そうとしている相手だが、しかしこの刹那俺は全く狼狽した。俺は殆ど直覚的に避けようとしてハンドルを切った。けれども間に合わなかったんだ。中条の奴、良心の苛責に堪えかねたか、俺の車にとび込みやがったんだ。
今となっては、誰も人の居なかったことが残念だ、俺は人殺しを計画した。だから検事にそう思われても仕方がないかも知れない。しかし今一歩という所でやりそこなった。相手に先んじられてしまったんだ。誰でも一人見ていてくれたら、彼のよろめき入ったことを立証してくれただろうに。
昨日中条未亡人を訪問した。俺が中条を殺したと疑っているのは検事とこの女だ。あの女は、昨日はほとんど物を云わなかった。
ああ、俺は大谷検事と中条未亡人が生きている限り、人殺しをしたと確信されている。俺は自分の計画が完全だと信じていた。余りに完全すぎたと信じていた。しかし、大自然が行う皮肉を無視していた俺は愚かだった、永遠に俺は呪われている」
伯爵がここまで書き記した時、ドアをノックする音がきこえた。伯爵の声に応じて小間使が丁寧に一通の封書を机の上において去った。差出人は中条綾子。書留郵便で投函日附は昨日である。
いそいで封を押し切った伯爵の目には次のような美しい文字がはっきりとうつったのである。
[#ここから2字下げ]
伯爵様、先刻は失礼いたしました。折角お訪ねくださいましたのに、私実はあの時、大変考え事を致して居りましたの。それで申訳ない失礼いたしてしまいました。お許し下さいまし。あの時私はある物を伯爵様にお目にかけようかどうかとまよっていたのでございます。けれどとうとう決心してしまいました。何事も申し上げませぬ。ただ同封の文をおよみ下さいまし。そうして永遠に御身近くにおもち下さいまし。
伯爵様、あなたの御力は偉大でございました。けれど、われわれの頭がどんなによくても神様のなさることを考える事は出来ません。神様のいたずらは、人間には判らないものでございます。
[#地より2字あきで]綾 子
[#ここで字下げ終わり]
「神のいたずら?……自然の皮肉?」
つぶやきながら伯爵はまき込められた一片の紙に目を通した。
そのはじめに女文字で「之は夫直一の日記の断片でございます。夫の死後、私が発見して今まで誰にも見せずにおいたものでございます。綾子」と記されている。
×月×日
妻はどうしても疑っている。否疑っているのではない。俺が吉田豊を殺したと確信しているのだ。俺の手が血みどろに見えるのか、俺の顔がそんなに恐ろしいのか。俺がこのごろ夜中眠れないで役所も休んでしまったのを、良心の責苦だと思っているらしい。馬鹿! 俺がいつあいつを殺したんだ。俺は人殺しじゃない。あいつはほんとに過《あやま》って死んだんだ。
俺が豊を殺そうとしたのはほんとだ。恐ろしいことだが俺はこの手で彼を崖からつきおとしかかったんだ。それは間違いはない。しかし、しかし、俺はあの時つきおとしはしなかったんだ。
もう少しで彼にふれようとする途端に、豊が不意に悲鳴をあげたんだ。俺は却って驚いた。どうしたんだ? と、きこうとする刹那、あの足場の悪い所だ。あっという間に足をすべらせて彼は下の岩に向って落ちこんだのだった。
俺はしばらく茫然としたが、直ぐにその原因は判った。綾子は前から知っているだろうが豊は、今になっても蜘蛛に対して極度の恐怖心をもっている。自分から見ると殆ど理由のない恐怖だが、あの刹那あの崖の上に立っている松の木からたれ下《お》ちていたのだろう。丁度彼の顔にあたる所に五寸に余る大蜘蛛が彼が落ちてからなおブラブラしているのを自分は見た。
豊が口ぶえをふいてのんきに歩いている所へ、不意にこの大蜘蛛が顔にあたったのだ。
蜘蛛だ! と認めた刹那、彼は恐怖の余りとび上ったのだ。その途端に足をすべらせてしまったにちがいない。
ああ思えばあの時、あの蜘蛛をそのまま、おいておけばよかった。自分も気味のわるい余りに叩き殺して海に捨ててしまった。自分は何という愚か者だ。もしあの時、誰でも一人人間があのありさまを見ていてくれたなら、俺の人殺しの疑いをはらしてくれるだろうに。又もしいっそ俺が訴えられれば弁解の辞は十分にあるのだ。しかし、妻は俺を人殺しと確信しているくせに、一回も俺に訊ねない限り何を云ってもむだなのである。俺はもはや綾子の沈黙の復讐に対しては沈黙の争いをつづけなければならないのだ。
しかし、俺はこのごろ凡ての人々に人殺しと呼ばれているような気がする。俺は人殺しを計画した。しかし実行はしなかったんだ。ああこの苦しみをいつになったら晴らす事が出来よう。
妻以外では、豊の兄の細山伯がたしかに疑っている。ああ毎朝、俺と顔を合わせる意味がわからない。俺は不愉快だけれど、俺が、あの道を通らなくなればなお伯は俺を疑うだろう。おお伯よ、いっそ俺を裁判所へ訴えてくれ!
(この間、日記の日附が三ケ月程あいている)
×月×日
俺はたまらない、こうやって無実の罪を凡ての人々からきせられて見られているのは。綾子は断然俺を人殺しと見て居る。一言もそれにふれない限り、俺も一言もいうまい。伯爵も毎日あうが何の為にわざわざあの時分通るのだろう。そうして訴えるようすもない。彼は俺を殺すつもりなのだろうか。
それ程疑うならいつでも殺されてやる。しかし、汝の復讐は神の目から見れば真正の復讐ではないのだ。
(この間数日のへだたり)
×月×日
昨日は危く自動車にぶつかる所だった。
医者は毎日歩けという。併し少しだってよくなる筈はない。
俺は丁度盲人が杖なしで歩くように往来を歩いている。ひょっとすると医者も俺を人殺しだと思って居るのじゃないか。綾子が医者にしゃべって居るのかも知れない。そうして俺を出来るだけ危険にさらすようにして居るのじゃないか。
俺は人殺しじゃない。人殺しを考えたことはある。けれどやったおぼえはない。
(次は死の前日の手記)
×月×日
こんなへんな気もちで生きている気はない。豊だって俺があそこにつれ出さなければ、死ななかったんだ。そう思えば俺は死んでやってもいい。しかし細山には殺されたくない。よし俺は奴のような自動車にのって来る人を利用しよう。あしたはあいつの来る頃、日比谷で他人の自動車にとびこんで死んでやる。細山が丁度通る頃、わざと他の車にとび込んでやる。どんな車でもいい、細山以外の自動車にとび込んでやろう。あそこまで用心してあるいて行かなければならない。
最後に、綾子に云う。人知を以て神の業をはかる勿れ。
読み終った伯爵は、この時ハッと今まで少しも気にしなかった事を思い浮べた。
「そうだ。あの日はじめて、それまでの箱型のクライスラーをやめて、買いたてのパッカードを動かしたのだった」
再び中条の日記を見ていた伯爵の目には涙があふれた。それが頬を伝って来た頃、彼は机の上に面を伏せて、長い長い間動かなかった。
[#地付きで](〈文藝春秋〉昭和五年七月号発表)
底本:「日本探偵小説全集5 浜尾四郎集」創元推理文庫、東京創元社
1985(昭和60)年3月29日初版
1997(平成9)年7月11日5刷
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:はやしだかずこ
2001年2月26日公開
青空文庫作成ファイル:
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