し某紳士が真犯人とすれば、子爵が殺した相手の兄だと知って居る彼にとって、毎朝偶然子爵に会うと云うことはたしかに一種の恐怖であり従って神経の弱って居るその男の態度に必ず変った所が見い出されるに違いない。そこで約半年子爵と某紳士とは摺れ違って居たとする。すると何日頃からか知らないけれども子爵はさっき云った妙な事実に気が付きはじめた、即ちある一定の時間に全く往来が途絶えるという事実。この事実が素晴しい手段を思い付かせたに相違ありません。
之からこの子爵が、犯人としてどの位頭がいいかを説明しましょう。先に云った理由によって子爵が行おうとする殺人のモーティヴは決して暴露する危険はない。その点に就いて心配する必要は毫もない筈です。子爵はつまらない小細工は一切しないことにする。わざと白昼、頗《すこぶ》る自然らしく殺人を行おうというのです。ただ誰からも見て居られないということが絶対に必要です。然り、ただその一点だけが此の殺人事件に於いて必要だったのだから恐ろしいじゃありませんか。而も某紳士が海岸で用いた手も誰からも見られぬという点だけが大切だったのです。之に対する復讐としては蓋《けだ》し甚だ適切だったと云うべきでありましょう。
子爵の用いた武器、即ちこの場合兇器は? 之こそ子爵の頭のよさを示すものです。彼は自分の乗っている自動車を相手にぶっつけようというのです。白昼、日比谷公園の中で、あの時に而も人の恐れる検事局の前で、パッカードで人を殺す! 何というモダーンな、而も頭のよい犯罪でしょう。
現今われわれ法律家から云えば自動車位殺人の兇器にたやすく[#「たやすく」に傍点]利用され得るものは他にないのです。たやすくとは安全に[#「安全に」に傍点]の意味ですよ。今云ったもとの同僚の探偵小説作家などは役人だった時分からこれを主張して居ました。『探偵小説作家が殺人方法として自動車を兇器に用いるのが一番現代に適切だろう。犯人にとって法律的にこの位安心なものはないのだから。それ程、現今の交通状態と法律とはかけはなれている。僕だってそれを書かせれば書くんだがほんとうにまねをする奴が出るといけないからまだ書かないんだ』とは最近彼が、私に洩した感想です。
子爵の考えも正にそこだったのです。これは子爵が相当な法律家だということを表わしています。自動車の事件は誰も見ていない限り、相手を殺してしまえば、特殊の場合でない限り、丁度あなたの時同様、検事は被疑者の供述以外に手がかりがないのですから、めったに起訴されないことになるのです。而も最悪の場合を考えて見ましょうか。誰か現場を見ていたとする。この場合故意に相手を殺したと思う人があるでしょうか。誰しも狼狽の極と思うでしょう。ことに殺人の動機が外に表われていない時においては、何人《なんびと》か之を人殺しと云い得るでしょう。即ち最悪の場合でも殺人事件にはなりませぬ。十人の証人が居て悉《ことごと》く子爵に不利益な証言をした所で事件は業務上過失致死罪の罰、即ち三年以下の禁錮又は千円以下の罰金ですむ筈です。伯爵、あなたは子爵某が過って人を轢殺して三年の体刑になると思いますか、今までの判例を見れは直ぐ判ることです。之は半年の間狙いに狙った刹那がそういう最悪の瞬間と仮定してもの話ですよ。而もこの不幸のプロバビリティーは子爵の計算に従えば頗る小さいものだったに違いありません。即ち子爵は、犯行の日、日比谷門から霞門に向いてドライヴする。相手がいつもの通り右側の舗道(即ち子爵から云えば左)を歩いて来るのが見えた。神経衰弱にかかった紳士があそこを西から東へ行く時は右の舗道を歩くのが最も安定だと考えるにきまっています。何故ならばあそこの舗道は甚だ狭く左側を通れば後から来る多くの自動車におびやかされるからです。子爵は素早くあたりを見まわす、といってもまず右側だけです。前面はカーヴしているからこっちだけ見ていればよい。左側は鉄柵で仕切られた植込みだからめったにこっちから人が来る筈はない。そのうち子爵と某紳士の距離はますます迫る。この辺でよしという所で、子爵はまッしぐらに相手の身体めがけて――即ち今までの進路から一寸左にハンドルを切って突進する。今まで通りに歩いていれば安心だと思っていた相手は驚いて逃げようとするひまがない。無論右に避けたいが鉄柵ですぐにはとび越えられぬ。仕方がないから左即ち車道に出ようとする。とたんに車体が相手を引き倒すという次第なのです。この場合相手が車道へ少しでもとび出して来ることが必要なのです。何故なら歩道へのりかけてそこで引き倒しては明かに過失ですから。自殺した場所さえ車道なら、はじめ少し車がカーヴして来てもその跡なんか、キぐ踏んでも消せますからね。現にあなたの場合などは全然車のあとは踏み消されて居たそうです。無論あ
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