××という村の小学校に勤めて居ります。どうぞよろしく」
 なめくじ男は、ここで今更改まってピョコンと一つおじぎをした。
 私が一応はっきり切り込んだので、なめくじ男は、話の腰を折られたと見えて、暫時《しばらく》黙った。
 そのかわり、私の前のシートにゆったりと腰を落ち付けて、何か考えて居る。
 列車は既に沼津を過ぎて鈴川あたりを走って居る。
 晩春の美しい森や小川を眺めながら私はつとめて気分をまぎらわそうとつとめた。
 相川というなめくじ男はこの時、ふと外套のポケットからウイスキーの罎《びん》を取り出して、
「先生一ついかがです」
 とやった。
 私は元来一滴も酒を口にしない上、この日は法律家としてやむを得ない旅行をして居るので、目的地に着けば相当仕事の上のまじめな準備もしなくてはならず、その上こんな得態の知れない男に何を呑まされるか判ったものではないから、きっぱり拒絶した。全く拒絶の形だった。辞退したのではない。拒んだのである。
 なめくじ男は、拒絶されても一向平気で、
「ではやむを得ません」
 と云いながら、自分で一杯生のままでのみほした。気がつくと、もう前から少しやって居るらしく、目の中が少し紅くなって居る。
「で、先生、さっきの話ですが……」
 又してもさっきの論題である。
「私は、探偵小説家たる先生に、そうです、特に先生にはっきり申し上げたい」
 この時、なめくじ男の顔から、俄然《がぜん》なめくじらしい表情は消え去って、鎌首をもたげた蛇のような鋭いようすが現われた。なめくじ男、否もはやそうではない、蛇男は更につづける。
「私は先生のような人が、ああいう小説をよく書いて居られると思うのです。実に不思議でならないのです」
「というと、どういう事ですか」
「先生は元検事でしょう? そうして今弁護士です。いずれにしても法律家である筈です。そうして、正義という事の為に常に不正と戦うべきことは同じ筈です。その先生が、世を毒するような、あんな探偵小説を書くのは不思議です。先生には一方では社会を正しく導かねばならない勤めがあるのです」
「冗談云っちゃいけない、僕は社会を導くなんてそんな大それた考えをもった事はありませんよ」
「いや、先生自身は自ら社会を指導する気はないかも知れない。しかし正義を奉ずる法律家に、それだけの覚悟がなくてどうするのです? もし先生がそれを考えて居られぬとすれば、先生は法律家たるの資格がない。法律家たる以上、それだけの覚悟がなければならん筈だ」
 この語気でも察せられるように、蛇男の勢いは非常に鋭くなり、しかも、その論旨も実を云うと、中々しっかりしたものなのである。
 私は、元来、議論にかけては可なりアグレシヴな態度をとる人間なのだが、一つにはこの相手の論理が可なり正しいのと、もう一つには例の妖気が、なんとなく気味が悪いので、巧みにその鋭鋒《えいほう》をさけようと試みた。
「確かにあなたの云われる事は真理です。しかし僕が探偵小説を書く時は、決して法律家として書いて居るのではないのですからね。その点は十分考えて頂かんと困ると思うのだが」
「探偵小説の筆を取る時は小説家、弁護士として金を取る時は法律家だ、とこう云われるのでしょう。成程、一応それでいいようには聞えます。しかしそれは胡魔化しだ。欺瞞だ! 先生はごまかそうとしているのです」
 彼の態度はますます猛烈で、その論旨はいよいよ急である。私は実は彼の頭が割にいいのに驚いたのである。
「先生は小説家だという。しかし如何なる場合でも先生が社会の一分子たる事は争いがない。あなたがなんといったって、社会に対する感化を考えないという事はけしからんです。あなたは自らお考えになった事はないのですか?」
 於是《ここにおいて》「先生」は俄然「あなた」に変じ、彼の蛇男は立派な社会評論家になってしまったのである。
 私は少し腹が立って来た。真面目に論戦してやろうと考え出した。そうして何と云ってやろうかと思っていると彼は、ウイスキーの罎を殆ど空にしながら、こういうのである。
「探偵小説家の中でも、特に私はあなたに文句があるんだ」
 此の一言はきき捨てならなかった。
「どうして、特に僕が、だ」
「あなたは法律家だ、従ってあなたの書くものには、とかく法律問題が出て来る。それが面白いかどうかは別問題として……」
「いや面白くないでしょうよ」
 私は一寸《ちょっと》からかって彼をくじいてやるつもりだったのだが、彼は少しもひるまぬ。ひるまぬ所か手をふりながら興奮してつづけるのである。
「私が特に文句をつけたいのはそこなんだ。あなたは第一殺人ばかり書いている。その上、その殺人方法のトリックが殆ど法律問題なのだ。いいかえれば、法律的に一番安全な殺人方法をいつも書いている。つまり、如何にすれば人を
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