何か云いかけられはしないかと、こんな気がしてどうしても落ちついた心持になれないのである。
 列車は第三十三列車名古屋行、普通車で東京駅を出たのが午前十一時三十五分だった。午後一時すぎ漸《ようや》く国府津についたので私は弁当を買うと同時に、手当り次第に、売子から雑誌を二、三冊買い求めた。そうして箱根のトンネルをくぐっている頃には盛んにその本をあけて見たのだが、しかし、どうしてもある一つの作に身を入れる事が出来なかった。
 ここで、読者は、たった一度会って睨み合ったその男を私が何故そう気にするか、という事を疑われるだろう。実際私も早くそれを云いたいのである。書けさえすればいくらでも書きたいのだ。しかし、いざその男に対する気もちを描写しようとするとどうも自分の筆の拙いのを嘆じないわけにはいかない。
 一言に云うとその男は、さきにのべたように、ごく平凡な姿ではある。しかし、何といっていいか妙な妖気がただよっているのだ。
 一昨夜市電で見た時はそうでもなかったが、今列車の中でよくよく見て居ると私は蛇におそわれたような気分になって来た。否蜘蛛を見た感じにも似て居た。更に又なめくじ[#「なめくじ」に傍点]にさわったようにも思った。
 この蛇と蜘蛛となめくじ[#「なめくじ」に傍点]の混血児のような感じのする男が、私の後方に五尺位を隔てて腰かけて居る、という感じは決していいものではない。この気もちは只想像して貰うより外ない。
 私が、どうしても本に身を入れる事が出来なかったのは、そういう次第なのである。
 私は、今にも肩越しになめくじのような手が出て来はしまいか、蛇のような首が出て来はしまいか、蜘蛛の足がまきついて来はしまいかと、びくびくして居た。
 汽車が三島を発した時、とうとう此の蛇ははっきり私の目の前に首を出してしまったのである。

          二

 汽車が三島駅を発すると間もなく、後から急に、
「もしもし」
 という声がしたので、私はとうとう来たなとびくっとした。
 私は、それ迄その男がどんなに腰かけ、どんな風にしていたかは少しも見ないようにして居た。
 現に(これは甚だ尾籠な事で恐縮だが)箱根を過ぎた時、尿意を催したのだが、この車の便所に行くには、どうしても彼の前を通らねばならないので、私はそれを避けてわざわざ後方の車の便所に行った位なのである。
 だから、彼が今までどんな表情をしていたか知る由もないがおそらく私の頭を見つめて居たのだろう。
「もしもし」
 と云われた時、すぐにこれがあの男の声だと感じたからすぐに私は振り向いた。
 ふり返って見た時は、既に私の右手に、その男がにやにやしながら突っ立って居るのである。
「…………」
「××先生じゃありませんか。どうもさっきからそうだと思って居たのですが」
 人の名を聞く時は、まず自ら名乗るのが礼儀である。私はこの問が快くなかった。
「あなたはどなたですか?」
 相手は不相変《あいかわらず》にやにやして居る。
「私はごくつまらぬ田舎の教師ですが……××先生でいらっしゃいましょうね」
「ええ僕は××ですが……」
「いや私もそう思って居りました。一昨夜電車の中でお会いした時も、たしかに雑誌で見た先生のお顔だと思ったのですが、つい申しそびれて……今日ここで偶然お目にかかったのは、ほんとうに幸いです」
 何が幸いなのか、私には少しも判らない。
「先生の御作はいつも愛読して居ります」
「いや、それはどうも恐縮で」
 小説家に対する最大のお世辞は、その文章を読んで居る事である。従って、こっちから云えばはたしてほんとうに読んでそう云って居るかどうか判らない、と云う事になるので、当らずさわらずの、いいかげんの返事をしておいた。
「近頃ずい分探偵小説が流行するようですが結構です」
「結構だかどうだか判りませんよ」
 この返事は私としては極く意味のない言葉だったのだが、相手は急にきっとなって云った。
「先生、先生はほんとうにそう思いますか?」
「何がです」
「つまり、今のようなこんな探偵小説流行の風潮を結構だとは思わない、若くは嘆かわしいとお考えになるのですか」
 これは真面目な問題である。相手は教師だという以上、教育上からこの風潮に対して、恐らく反対の気勢をあげるのだなと私は思った。
「あなたは今ただ田舎の教師だとおっしゃった。紹介のない相手にいきなり口をきいて、しかもその人の意見をはかせる以上、僕は君自ら、はっきりとお名乗りになるのが礼儀だと考えますが……」
「これは申しおくれて相すみません」
 彼はこう云いながら、上衣のポケットから余りきれいでないシースを取り出し、その中から一葉の名刺を抜き出して私に手渡した。
 見ると、それには『相川俊夫』という四字が印刷されてあった。
「T市から数里隔った
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