否、将来ばかりではない、結婚後だって無論そんな事はない。只あれは結婚前の過失だから、どうか許してくれと申すのです。先生、こう云われてはどうすればいいのです。未練な私は敏子をまだ愛して居るのです。妻の涙を許すより他仕方がなかったのです。
その頃妻は妊娠して居ました。私は妻の告白後、その腹の児を疑ったのです。しかし、これに対して、妻は断固として私の疑いの根拠のない事を主張しました。妻とこの話をする度に、私はそれをきかされました。きかされては、心で安心したのです。しまいには疑いが心に食い入って来ると、わざと妻になじり、妻が断固として私の疑いを破壊してくれるのを頼りにしていたような男らしくないひねくれた私になってしまいました。
昨年の夏、妻は遂に女児を生みました。ひろ子という名をつけて妻は愛し切っています。しかし、私はひろ子が生まれたその時から、その顔を見たその時から、何故か『これは俺の子ではない、あいつの子だ』と感じたのでした。不幸な事です。しかしほんとうの話なのです。近所の人は私に似て居るとお世辞を云っています。けれどどう見たって私の顔に似て居るとは考えられませぬ。私は水原に似ているとははじめ考えませんでしたが、しかし、自分の気のせいか、目のあたりが、私よりも彼に似ているように思われて来ました。
そうして、日がたつにつれて、だんだんと面ざしが彼に似て来るように思われるのです。
私は或る一夜、眠れぬままにいろいろに考え耽《ふけ》りました。敏子は過去の罪を自白した。しかし、これは自分としては許したのだ。許さざるを得なかったのだ。敏子が心を改めている以上、自分は過去を凡て葬り去ってしまわなければならない。この事は今苦しいには違いないけれ共、この心の傷は年が経つにつれて癒えてゆくべきものに相違ない。
しかし、ひろ子は? 若しひろ子が敏子の過去の罪の結果生まれたのだとすれば、ひろ子が生存する限り、自分と敏子とは、憎み合わねばならない。少くとも自分は、韮《にら》を噛むような思いをして一生を送らなければならない。しかもひろ子は一日一日と生長している! 自分と敏子との間にあるこの障害は一日一日と大きくなっているのだ。
若し、ひろ子が死んでくれたら! そうです、私の頭に一番はじめに浮かんだのは、若しひろ子が死んだら! という事でした。もしひろ子が死ねば私と妻との間には過去以外には何もなくなるはずです。いいかえれば、ひろ子が死ぬ事はわれわれを幸福にする事なのです。
こう思いついてから、私はひろ子が死ぬ事ばかりを願っていました。一つには理屈でなく、私にはひろ子は全く可愛くないのでした。だから、死んだら、死んだら、と思いつづけるようになってしまったのです。
私がひろ子を殺そうと思い付いたのは、偶然あなたの探偵小説を読んだ時なのです。さきにも申したように先生の小説には常に法律上の挙証の問題が取り扱われています。法律上罰せられないように、人を殺すには直接の証拠を残さなければいいという事です。法律にふれても、実際上罰せられぬように殺せという事です。私は先生の小説を凡て読みました。そうしてその中から一つの確実な何物かを掴んだのでした。
それは丁度この一月のはじめでした。私は寒い雪の間、ひろ子殺害の方法を研究したのでした。如何にしてひろ子を殺すか。あなたは私がどうやったと思われますか。
私に直接のヒントを与えたのは、あの頃、私の住んでいるA県下一体を襲った猛烈な悪性の流行性感冒だったのです。私のつとめていた小学校の生徒が、毎日一人位ずつの増加率を以て休みはじめたのでした。そうして当歳や二歳の児がたちまち肺炎になって死亡して行くという事が、私の近所でもはじまったのです。私はこれをきいた時、全く時《とき》来《きた》れりと感じました。
一月の或る寒い日でした。外には吹雪が荒れて、下には四寸位の雪が積っています。機会を狙っていた私はその日朝から珍しくひろ子をだいたりあやしたりやって居ました。暗くなってからひろ子がすやすやとねついたので、敏子は、私にるすを頼んで風呂に出かけました。この時です。この間です。失ってならないのはこのひまです。私は妻が傘をさしかけて出て行くのをたしかめてから、そっと裏口を開けました。
外は今も申すような物凄い吹雪です。私はねているひろ子を出来るだけ着物をはいで、裸体にして抱きました。濡れぬように軒のへりに沿って歩きながら、この寒い中に立ちつくしました。ここは一面の畑で誰も通るおそれはなかったのです。こうやって、二歳になる赤児が、一時でも早くこの烈しい寒気の呪いを受けるようにと祈ったのでした。
私は全く悪魔でした。ひろ子は殆ど素裸体にして抱きながら自分は戦慄しつつもまるで寒さを忘れていました。烈しい伊吹|颪《おろし》に我が子
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