までどんな表情をしていたか知る由もないがおそらく私の頭を見つめて居たのだろう。
「もしもし」
 と云われた時、すぐにこれがあの男の声だと感じたからすぐに私は振り向いた。
 ふり返って見た時は、既に私の右手に、その男がにやにやしながら突っ立って居るのである。
「…………」
「××先生じゃありませんか。どうもさっきからそうだと思って居たのですが」
 人の名を聞く時は、まず自ら名乗るのが礼儀である。私はこの問が快くなかった。
「あなたはどなたですか?」
 相手は不相変《あいかわらず》にやにやして居る。
「私はごくつまらぬ田舎の教師ですが……××先生でいらっしゃいましょうね」
「ええ僕は××ですが……」
「いや私もそう思って居りました。一昨夜電車の中でお会いした時も、たしかに雑誌で見た先生のお顔だと思ったのですが、つい申しそびれて……今日ここで偶然お目にかかったのは、ほんとうに幸いです」
 何が幸いなのか、私には少しも判らない。
「先生の御作はいつも愛読して居ります」
「いや、それはどうも恐縮で」
 小説家に対する最大のお世辞は、その文章を読んで居る事である。従って、こっちから云えばはたしてほんとうに読んでそう云って居るかどうか判らない、と云う事になるので、当らずさわらずの、いいかげんの返事をしておいた。
「近頃ずい分探偵小説が流行するようですが結構です」
「結構だかどうだか判りませんよ」
 この返事は私としては極く意味のない言葉だったのだが、相手は急にきっとなって云った。
「先生、先生はほんとうにそう思いますか?」
「何がです」
「つまり、今のようなこんな探偵小説流行の風潮を結構だとは思わない、若くは嘆かわしいとお考えになるのですか」
 これは真面目な問題である。相手は教師だという以上、教育上からこの風潮に対して、恐らく反対の気勢をあげるのだなと私は思った。
「あなたは今ただ田舎の教師だとおっしゃった。紹介のない相手にいきなり口をきいて、しかもその人の意見をはかせる以上、僕は君自ら、はっきりとお名乗りになるのが礼儀だと考えますが……」
「これは申しおくれて相すみません」
 彼はこう云いながら、上衣のポケットから余りきれいでないシースを取り出し、その中から一葉の名刺を抜き出して私に手渡した。
 見ると、それには『相川俊夫』という四字が印刷されてあった。
「T市から数里隔った
前へ 次へ
全20ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング