こうなっては最早のっぴきならない。
「君は確かにあると断言するのだね。よし。それでは君はその人の名をあげて僕に知らせる責任がある。それをしないでただそんなに頑強に僕を批難しても何もならん」
 私には、この世の中にそんな人間があるとは信じられず、又若し(しかり、正に千万度も「若し」だ!)そんな殺人者があったとしたところで、まさかその人間の名を彼が私に云い得る筈はない、と思ったので、ぴっしゃりと、叩きつけるように云ってやったのである。
 此の一言ははたして効果を現わした。
 猛虎のようにつめよった彼はこの時、正にたじたじとなったらしい。口をもごもごやったきり、物凄い顔で私をじっと見つめたのである。暮れやすい春の太陽は弱い光を投げかけながら今、山に入ろうとして居る。
 この気味の悪い沈黙の数分間、私も負けずに彼の気味のわるい顔を見つめてやった。眉《み》けんのあたりに深いしわをよせながら、彼は何か心の中で苦悶と戦って居るらしい。
 私ははじめ、彼が一本参ったので口惜しがって居るものとのみ思って居た。しかし実はこの時の彼の顔色は、より深き苦しみを現わして居たものである事が後に判った。
 唾を二、三度のみ込みながら、急に相川は口を切った。今度は又、俄《にわか》に丁重な言葉を用いながら。
「先生、先生は弁護士でいらっしゃる。弁護士として聞いた人の秘密は無論お洩らしになる事はないでしょうね」
「勿論です。道義上でもいうまでもない事ですが、法律の上でもわれわれはそういう秘密を洩らすわけに行かなくなって居るのです」
(平凡な描写をすれば)相川は、しばらく、云おうか云うまいか、と頻《しき》りに考えたらしいが、結局、こう云い出した。
「それならばお話しします。さっき申した一人というのはかく申す私なのです。相川俊夫です」
「何? 君?」
「そうです。私こそ先生の小説の為に身を誤った人間の一人なのです。私はこの冬、一人の人間の生命を奪いました。人殺しをやったのです」
 読者は、私がこの時彼の正気を疑った事を無理もないと考えられるだろう。彼のようすには少しも冗談らしいところはない。否、非常に真剣なのである。だから相川俊夫が私をからかって居るとは考えられないのだ。
 私は、たしかに此の男は気が狂って居るのだな、と感じた。
 それで私は、わざと驚いたようすをせず、平気な顔をしてこう云った。

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