十分の覚悟はしてあるだろうね」
この一言にはさすが星田は愕然《がくぜん》としたらしく検事を見上げた。
「正岡君は平生《へいぜい》君を知っていたらしいのでまず君の名が星田代二であると信じている。けれど、まず僕はそれから取調べてかからなければならない。今書記がもって出た前科調書の裏に君の指紋がとってある。けれども、正岡君は、君に前科のないものと信じていたかもしれない。それで前科なしと記してある。ところが、本庁でうまくそう云ってぬけて来た者が検事局で、怪しまれて前科のばれた例、本名のばれた例がいくらもあるぜ。実は今、あの指紋をもって本省に行かせたのさ、十分か十五分の間にもう一度あれを調べてもって来る。前科の欄と、姓名の欄がかわって来ないことを君の為に祈る」
二木検事はこう云って穴のあく程星田代二の顔をにらみつけた。
しかし星田代二はやはり石のようになったまま一言も発しない。
「そこで君は今日は勿論帰宅出来ぬものと考えなければならぬ。物的証拠は全部君に不利だ。しかし、まだ被害者が如何にして殺されたか。如何なる方法で、何故《なにゆえ》に? 之《これ》らが実はまだ確定出来ていない。今日は之から君を取調べた上で、君には一晩もう一度本庁であかしてもらう。そしてあすから君は十日間市ヶ谷刑務所でくらさなければならぬ」
「え? 市ヶ谷?」
「うん。之は念の為に云っておくが起訴前の強制処分で、刑事訴訟法第二百五十五条によるのだ。この勾留は十日以内に検事が事件を起訴するか、不起訴とするかに決定しなければならないのだ。これは同法第二百五十七条第一項に定めてある。いいか、君、勝負はこの十日間だよ。十日のきれ目に僕は君を起訴するかも知れん。しかし或は不起訴として君を釈放するかもしれない。天下の分け目だ」
丁度この時ドアをノックする音がきこえてついで、さっき出て行った書記が手に書類をもちながら戻って来た。
落着きをよそうようにして検事は書類を手にとった。彼は最後についている前科調書の所をいきなりあけたが、何ともつかぬ一種の驚愕《きょうがく》の表情を示して星田を見なおした。
はたして星田代二は、本名だったろうか。
而して彼は何の前科ももたなかったか?
底本:「「探偵クラブ」傑作選 幻の探偵雑誌8」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年12月20日初版1刷発行
初出:「探偵クラブ」
1933(昭和8)年1月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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