まく行つたがずいぶんきわどい仕事だつたよ。
素人目には派手で、素晴らしく見えるかも知れない。しかしあの堂々たる序曲と第一楽章を作つた作者にしては決して誇るべからざる第二楽章ができ上つてしまつたのだ。
テンポの緩やかな長いイントロダクション、続いて湖水の表のような冷静な第一楽章、アンダンテ、しかして作者はこの章と第二楽章との間に少くとも十二日間という休符を挿入するつもりだつた。ところが予期せざる事情の為に第二楽章は意外に早く、しかもプレストで行われた。秋川一家というテーマの上に組み立てられたこの殺人シンフォニーはかくして第一、第二の楽章がアンダンテとプレストに作られ偶然にもシンフォニーの形式で弾奏されはじめたのだ。はたして第三楽章がつづいて演ぜられるだろうか。……そうだ。ことによると、第三楽章がまた意外に早く来はしないかな。ぐずぐずしてはおられん」
彼はこういうと、腕時計にチラリと目をやつた。
「そうあわてる必要もあるまい。しかし、気がせくよ」
「そんなに早急なのかい」
「うん、この殺人芸術家はシンフォニーの第二楽章を不用意に開始した。彼如何に天才なればとて、必ずや何か手ぬかりを残している。この手ぬかりの故だよ。もし第三楽章が急に演ぜられるとすれば……しかしまだ時間がある。僕らは例によつて一応昨夜の事件を考えて見ようよ」
彼はシガーの煙をますます濃くはき出した。
「例の草笛氏のサインで顔色をかえた。この前後のことでだろう。犯人がやす子の様子に自信がおけなくなつたのは」
「だつてあの時は君と僕と林田の三人しかいなかつたぜ」
「何も顔色をかえた刹那をいうのじやない。それから部屋を出て後のようすがどんなものだつたかな」
「それは僕らに判らんね」
8
「恐らくその時分わが天才犯罪人は、これはどうしても一刻も早くやす子を殺さなければならないと決心したのだ」
「じや一体犯人はその時うちの中にいたのかね」
「さあ、彼女の態度なり様子を知つていた以上、少くも秋川家の門の中にいたと思わなけりやならぬ[#「少くも秋川家の門の中にいたと思わなけりやならぬ」に傍点]。問題は、顔色をかえてピヤノの部屋を出たやす子があれから誰に出会《でくわ》したかということだ。犯人はおそらくやす子と共に庭に出たか、やす子のあとをつけたと見なければならない。それはいずれにせよ、昨夜あの騒ぎの時分、スリッパのまま庭に出た人間が一人あるのだ」
私はこの時暫く考えて見た。藤枝、私、警部はいずれも玄関から靴で出、ひろ子は下駄で出ている。ただ林田一人は急をきいて二階から下り、靴をはく間もなくそのままあのガラス戸の入口からスリッパでかけ出して来たのだつた。
「うん、林田がスリッパをはいていたよ」
「いや、それ以外にもう一人あるということさ。林田がスリッパをはいて出ていたことはよく判つている。然し彼はあれからまたガラス戸の入口から上つて行つた筈だぜ。ところが君、昨夜、裏口から上つた時僕は一足の土のついたスリッパを発見したのだ。しかも偶然に!」
私は昨夜のあの時の事を思い出した。
「われわれは一体このスリッパは誰によつてはかれたか、しかしスリッパの主は何のために外に出たかを考える必要がある」
「え……それから駿太郎は?」
「さ、それさ。駿太郎が部屋からとび出したのは決して暴力を用いられたのではないということを君も了解出来るだろうね。少くとも彼は自己の意思で部屋をとび出したのだ。しかも非常にあわててね」
「何か見たのかしら」
「見たとすれば、それは決して恐ろしい光景じやあるまい。もしそうなら、キャーとかワーッとかいう筈だからね」
「とも角レコードをかけつ放しにしてとび出したのだから余程いそいでいたと見える」
「ところがそれ程いそいでいた駿太郎が、ちやんとドアをしめて出て行つたのはどういうわけだろう。君はたしかあそこのドアがチヤンとしまつていたと云うが……」
「そうだ。たしかに……」
「こうは考えられないかね。駿太郎はわざとレコードをかけ放してドアをしめて出たのだと」
「というと」
私はちよつと判らないのでこうきいて見た。
「つまり彼は、実は自分があの部屋にはいないのに外からちやんと中にいると思われるようにしたのじやないかしら」
「成程」
「次に犯人の活躍ぶりを一応考えて見よう。さきに云つた事情で駿太郎の犯人――恐らくはやす子の犯人はあの庭の木立の中で電光の如くに二人をやつつけたのだ。いいかい。これが人里はなれた一軒家でやつたのではないよ。うちの中にはわれわれはじめ多くの人がいて、いつ偶然のチヤンスから庭に出ないとも限らぬ状態だつたのだ。とすると、犯人は実に短時間の間、身を非常に危険な状態においていたことになる。これは実に彼としては死物狂いの、デスペレートな襲撃と云わねばならぬ」
「実際、もし見られれば万事休矣《ばんじきゆうす》だからな」
「しかし、この位の大シンフォニーの作者がそれ程大きな危険をいかにデスペレートになつたからと云つて、平気で冒すだろうか」
9
「かりに犯人が死なないうちのやす子、駿太郎の側にいることを偶然に人に見られて万事休矣という場合に立つただろうか。もしそうだとすれば犯人はわりに長い時間(といつても一分か二分だが)に渉《わた》つて非常な危険に身をさらしたというべきである。わが尊敬する犯罪王ナポレオンがいかにデスペレートになつたからと云つてそんなへま[#「へま」に傍点]をやるだろうか。僕はそうは思わないね」
「というと?」
「すなわち犯人の危険は僅か一瞬間だつたのだ。一秒にも足らぬ間だつた筈だ。駿太郎の頭を割つているところ、またはやす子の首をしめている所を見られれば誰だつて万事休矣だ。しかしこれは時間にして極めて短い。犯人の計算によればこれが発見されるプロバビリティはごく小さかつたわけだ」
「じや殺人の直後に見られてもいいのかい」
「そうだ。僕はそう考えるべきだと思う」
「僕にはちよつと判らないな」
「判らないかい――じや例をあげて説明しよう。今かりに秋川家のおやじ[#「おやじ」に傍点]が駿太郎の死体の側に立つている所を、偶然僕に発見されたとする。その時彼が『先生、大変です。へんな声がきこえたので来て見るとこの有様です』と云つて僕にすがりついたとして見給え。僕はただちに彼を疑い得るだろうか。彼にとつて万事休矣だろうか。そうじやあるまい。あの家のおやじ[#「おやじ」に傍点]が自分の庭を歩くのを怪しむわけにはいかないからな。だからかりに駿三が駿太郎を殺すとすれば危険は甚だ少いわけである。これと同じ理由で、ひろ子かさだ子が、やす子の死体の側に立つている所を、誰か女中――例えばあのお清[#「お清」に傍点]という女に発見されたとしよう。『大変よ、清や。大変よ、やす子が……』と云つてウーンと後にのけぞつて目でもまわして見給え、誰がひろ子やさだ子を疑うだろう」
「成程、では君は、今度の殺人犯人はきつと家の中の奴だと思うのだね」
「いよいよグリーン殺人事件だ。あの時庭にいた犯人は家の中の人々すなわち家族の一人かまたは、やす子や駿太郎に甚だ親しい人間と思うのが至当だろうね、つまり今云つたように殺人直後に発見されても人から怪しまれぬ条件をもつている人間と見るより外はないな」
「しかしあの時駿三もひろ子もさだ子も初江も皆アリバイをもつているぜ」
「しかし共犯者という者があるからな」
私はこの時伊達正男のことを思い出して一種の戦慄が身体を通つて行くような気がした。
「少くとも直接手を下したのは、家庭の者ではない。……とするとまず伊達だな」
「そうだ、伊達なら今僕が云つた条件にかなうことはかなうよ」
「するとその共犯者はさだ子ということになるね、無論」
「小川君、君はものの表ばかり見ているからいかん。成程、かりに伊達を犯人だとすればさだ子が当然共犯者だということになる。しかしそれは表向きの話だぜ。伊達とさだ子は婚約者だ。しかし君は彼ら二人の恋人がしたしく抱擁をする所でも見たことがあるのかい。ねえ、婚約者には違いない。しかし愛情の点は誰も見ていないぜ。否、かりにある程度まで愛情があつても、もし伊達が犯人だとすればそんな男は誰とでも妥協し得る筈だ。ことに秋川家のようなへんな家の者ならね。彼はあるいはひろ子とひそかに妥協しているかも知れない。初江と通じていないとは限らぬ。否、あのおやじとどんな妥協をしているか判つたものではない。この中でひろ子かさだ子と妥協しているということは最も考え得べきだ」
10[#「10」は縦中横]
「ねえ君。今回の犯罪によつて一番利益を得たのは誰だい。十七日の殺人事件によつて一見利益を得たと思われるのはさだ子及び伊達だ。然るに昨夜の殺人事件によつて利益を得たのは誰だろう。佐田やす子の死によつて利益を得たのはさきにも云つた通り犯人Xだ。しかし駿太郎の死は誰に得をさせたか。考えて見給え。駿太郎は秋川家の法定家督相続人だぜ。それがなくなつて女の姉妹だけが三人残つた。そうすれば長女がまず一番得をするわけじやないか」
「じや君はひろ子が怪しいと云うのか」
「うん、怪しいと云えば皆怪しい。そうだ、秋川一家の人々悉く怪しむべしと云いたいね」
「犯人が全く秋川家の外にあるとすれば無論別だ。僕は十七日の事件の後でここで君にまさかこの事件がグリーン一家と同じことになるのじやあるまいと云つた。しかしこの言葉は取り消さなければならないかも知れぬ」
「ところでまず第一回の事件すなわち四月十七日の事件だ。嫌疑から全く遠ざけていいのは第一に駿太郎だ。次に初江だ。この二人は全然薬のことも何も知らなかつたらしいから。そこで疑えば他の家族のメンバーを皆怪しむことが出来る。その嫌疑者の第一は駿三さ」
「どうして彼が妻を殺すだろう」
「そんな動機なんか、すぐ判るものか。ことにあんな秘密の多い家のことだもの。駿三を犯人とすることは最も便利な説明のつき易いテオリーだよ。夫のことだから妻のねる時妻の部屋にはいるのは極めて自然だろう」
「だつて中から戸に鍵がかけてあつたぜ」
「君は徳子が内から鍵をかけるのを見たのかい。ただ駿三自身がかかつていたと云つてるだけじやないか。ひろ子はただその話を父からきいたにすぎないよ。駿三が妻の部屋に入り、何か話している間に薬をすりかえる。そうして、妻に昇汞をのましておいて素早く自分の部屋に去るのだ。このテオリーは徳子の寝室の天井に電燈がついていた、ということを説明するのに極めて便利だ。普通ねて薬をのもうとする者は、大抵スタンドをつけて、天井の燈はまず消すものだからな。こう考えればアンチピリンが見えないのは不思議ではない。すなわち駿三がどこかにかくしてしまつた、と思えばいいわけだ。鍵は騒ぎがおこつてあとからかけたと見ればいい。同じようなテオリーはひろ子を犯人としても成立する。ただ夫と娘と代るだけだ。ひろ子が母親の寝室にはいることだつてちつとも不思議はないからな。ひろ子が何かの理由で母を殺したとすれば彼女は実に絶好のチヤンスをつかんだのだ。彼女は殺人を行つて自分が疑いをのがれると同時にさだ子に嫌疑が向くようにしたからだ」
「しかし君、徳子の最後の一言は? あれでは夫やひろ子に嫌疑をかけるわけには行くまい」
「判らない人だね君は。こないだも云つた通りあんなことはひろ子の出鱈目かも知れないじやないか。またもし、ほんととしても、徳子は薬をすりかえられたことを知らないのだから、発議したさだ子のことを云うのに少しも不思議はないよ。さて次がさだ子。これも充分疑つていい。理由は今までと同じ。加うるに母と仲が悪いという重大な点がある。だから家族すべて怪しいと云つていいようだ。家族以外ではまず伊達だね。これはさだ子を疑うと同じ理由だ。ただ薬をすりかえる為に徳子の寝室にははいれまい。まずさだ子の部屋であろう。佐田やす子は僕は犯人でないと思う。これは後に殺されたからばかりではなく、一体秋川家の者を恨んでいる奴が、図々しくそこの家の女中になりま
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