に見ていたが、何も云わずに傍の重要書類を入れてある箱の中にこれをしまつた。
「ねえ、五月一日とはよかつたな、メーデーだね。馬鹿な事をするねえ。犯人というものは時々こんなことをするものだよ。これが彼、もしくは彼女の手落ちにならないことを僕は望むよ……あはははは」
 彼はこういうと、ふと机に向つて、紙をおいてしばらく何かしきりと書き込みはじめたのであつた。

      5

 私は実は気が気でなかつたのである。
 警察も無論活動を開始しているであろう。
 林田探偵もあの秋川家にふみとどまつて、その神の如き鋭い頭を働かしているであろう。
 だのにわが藤枝真太郎はこのオフィスで、一向あわてる様もなく何か悠々と机に向つて書いているではないか。
「おい君、いやに落ち着いているじやないか。そんな事をしていていいのかい。活動しないでも」
 私はたまりかねてとうとうこう云い出した。
「活動? 何をあてに君、動くつもりなんだい。僕らはあるふしぎな事実を知つている。然しはつきりした事実を少しも知らない。それを知らずに君どうして動けるものかね。まず充分ここを働かしてからにしようぜ」
 彼はこう云つて自分の額を指でさした。
「ねえ、僕は念の為に今までの事実をノートに記して見たのだ。これから君と二人でこの事実を考えて見ようじやないか」
 おもむろに机の上から数葉のペーパーを手にとると、彼はその中から一枚のペーパーを取り出して私の前に腰かけるとおちついて語りはじめた。
「僕は今までの事件を二つにわけて見た。つまり大体の事実と、秋川一家の人々の供述とだ。まずはじめに、惨劇までという項目から事実をぬき出して見よう」
 こういうと彼は、側においてあつた、とつておきのスリーキャッスルを一本つまみ上げ、ダンヒルライターを巧みに用いてそれに火をつけた。
「われわれは秋川駿三という人物の存在を知つている。この人の現在は興信録にある通りだ。三人の娘と一人の息子があり、宏壮な邸宅を山の手にもつている。信用録その他で見ると彼の資産は約八十万と云われ、それが不動産でなく大抵現金と有価証券とから成つていると云うから大したものだよ。ただ大切な事は、彼が一代にしてその富を成した、という事をわれわれは知つているが、如何にしてその巨富を作つたかということについては残念ながら僕らは今の所まつたく無智だ。この点をまず第一に心にとめておく必要がある。ところで彼は今まであまたの会社に関係していたが、昨年の十一月頃に急に全く社会から関係を絶つてしまつたのである。ひろ子の云つた通り四十五という男盛りでこれは少くとも通常の出来事ではない、と云わなければならん。
 その隠退の表面の理由は極度の神経衰弱だけれども、誰もその原因を知ることが出来ない。これが又重要な点なのだ。長女ひろ子の説によると、彼は何か自分のいのちの危険をおそれているらしい。いいかえれば彼のいのちをおびやかす人間がこの世にいるか又はいると彼は少くも信じているのだ。
 その具体的なシンボルは例の赤三角の封筒だよ。八月に一回、十月に一回、彼の所に脅迫状が来たことはたしかだ。しかしわれわれはまだこの他にも来たかも知れないと思うことができる。
 そこで又ここに注意すべきは、駿三はこの手紙を誰にも――警察は勿論家族のものにも一切見せなかつたということだ。家族に見せないというのは一応常識で判るけれども、全然当局に示さぬというのはどういうわけだろう。しかして、その上にだ。彼はその手紙をどこへどう始末してしまつたか全然われわれは知ることはできない」
「ねえ、藤枝、秋川氏は誰にもこの話をしなかつただろうかね」
「そう思われるね。ただたつた一人、林田英三君にはいつかしやべつたかも知れぬよ。彼中々信用を博しているから。しかし彼に話をしたにせよ、わりに近くのことだと思うね。さてそこで又々注意すべきは、昨年の十月になつてから次女さだ子の所にもへんな手紙が来たという事実だよ。

      6

「君は、さだ子がその赤三角の手紙を父にもつて行つた時の父の慌て方をひろ子からきいたろう。そこで又一つ考えなければならぬことがおこつた。すなわち、われわれは不幸にして父の所に来た脅迫状の内容を知ることができないが、一体その脅迫状は、駿三のいのちをおびやかしているのか、又その家族にも危害を加えると云つているのかという問題だ。駿三のあわて方から考えると、たしかに後者だと見なければならない。更にここで今一つ君に注意を喚起したいのはこれらの手紙は全部郵送されて来たということだよ。
 次にもう一つ不思議なことがおこつている。
 それははじめて気味の悪い手紙を受け取つた当人のさだ子がこれを姉には云つたけれど、母には云わなかつたという事実だ。君はひろ子が、この点について、確信を以て、さだ子は母にいわなかつたろうと思うといつたことをおぼえているだろうね。父が誰にもいうなといつたからいわなかつたといえばそれまでだがね、ちよつとふしぎじやないかな」
「しかし姉ひろ子には、はつきり話したらしいね」
「それはあの場合、どうしても話さなければならなかつた状況にあるからさ。それに或いは姉には話しても母にはいわぬという理由があつたかも知れない。これはしかし僕には大分判つて来たよ」
「そうかな」
「つまり秋川一家では昨年の夏から年の末まで主人がおどかされ通しで、それを知つていたのはひろ子一人、そうして、そのまま今年にもち越して来たという事になる。ところで昨年の末から昨日までのようすは生憎、君も知つている通り、ひろ子からきく事が出来なかつたが、察する所、段々その脅迫の度合がひどくなつて来たと考えればいいのだろう。
 つまり、ひろ子がたまりかねて僕の処にとび込んで来た、と見ればいいわけさ。
 以上が惨劇までの秋川一家のようすだが君は一体これをどう思うね」
「そうだね。まあ常識で考えて判ることは主人の過去に何か恐ろしい秘密があると思うよりほかに仕方があるまい」
「そうさ。秘密というより或いは犯罪かも知れないよ」
 彼はスリーキャッスルの煙をゆらゆらと上げながら云つた。
「さて、そこでいよいよ昨日の事件にうつるのだ。ひろ子がここに来ていたことは、たしかに犯人、少くともあのへんな手紙の発信者には判つていたと見える。彼は少くとも犯罪の予告をしている。
 徳子が頭痛がするといい出した。さだ子が自分の薬をのまそうと発議した。そこで佐田やす子に云つて薬局にいいつけて薬を作らせた。次いでやす子がこれをとりに行き、すぐ受け取つて、誰にも会わず家に戻つた。薬局を調べて見るとたしかに間違いはない、これは高橋警部が二回も調べ、医者も立ち会つたから大丈夫だろう。そこで封印のしてあるまま、さだ子がこれを保管して夜、母にのませたのだ。しかるにそれがいつのまにか毒薬に変じて母がその場で死んだということになつている、君は一体これをどう考えるね」
「どうつて、何をさ」
「われわれの常識では、アンチピリンが昇汞に急に変化するとは考えられない、甘汞か何かなら又別の考えようもあるがね。とすると誰かが、薬局の封印のまま中味をすりかえたと見なければならぬ。その手品をやつた奴がまず犯人だという事になるね。無論、たしかな事はあしたの解剖の結果を待たねばならないが、徳子が昇汞で死んだということはまちがいないらしい」
 私はこの時ふとある疑問を心に浮べた。

      7

「そうすると、一体犯人は誰を殺すつもりだつたのだろう」
 私は思わずこうきいた。
「さあ、そこだよ。犯人は一体徳子を殺すつもりだつたのだろうか、それとも他の人をやつつける気だつたのか、ということは確かに考えて見る必要があるよ。君もきいていた通り、検事はその辺を調べていた。西郷薬局では、あの薬はさだ子がのむと思つていたという。これはごく自然な話なのだ。そこで問題はこういうことになる。風邪薬が、西郷薬局から秋川邸に来るまでに昇汞に変じたか、あるいは秋川邸に来てから後、昇汞に変じたかということだ。もし、秋川邸に来るまでに代つたとすれば、犯人は一応さだ子のいのちを狙つたものとしなけりやならない。秋川邸へ来てから代つたものとしてもそう考えられぬことはない。
 しかしだ。若し秋川邸の中の誰かが、徳子がのむことを知つていたとすると別な考え方をしなけりやならなくなるわけさ」
「けれど、二人のうちどつちでもかまわぬという犯人があるかも知れないね」
「おや小川、君は中々うまいことを云うね。僕もその考えはもつているんだよ。もしここにある人間がいて秋川駿三を苦しめようとすれば、その妻を殺しても又は娘を殺してもいいというわけになるからな。だから、結局こういうことになるんだ。犯人は、秋川家の家族の中誰でもいいから殺そうとしたか、あるいは妻を特に狙つたか、又は娘を狙つたかだよ」
 藤枝は自分のふかすシガレットから上る煙をじつと見ていたが、ふとまた真面目な顔をしてつづけた。
「ただ一つ今度の事件で重要なところがある。それは、今度の殺人は一見全く偶然のチャンスに乗じたということだ。ねえ君、徳子が頭痛がするということは前からきまつていたわけではない。いわんやさだ子が自分の薬をすすめるということは決してその必然的の結果ではない。全くの思いつきだ。とすれば犯人はこのごく僅かな事件と時間を有効に利用したということになるのだ。
 しかして一方、八月頃からの脅迫状のことを考えて見給え。あれだけのことをする奴は余程冷静に計画していたと思わなけりやならんよ。君はこの二つの事実をよく考えて見る必要があると思うね」
「しかし、遠大な計画をたてていた犯罪人は常に秋川一家のようすを注意していたと思わなけりやならない。だから彼はその偶然のチャンスを決して見逃さなかつたのだろう」
「うん、それもたしかに一つの考えだ」
 藤枝はこういつたが、更にまたつづけた。
「ここで特に君の御注意を乞いたいのはその偶然のチャンスが家庭内の極めて家庭的のものだという点だよ。そうでない場合、たとえばさだ子がドライヴに出て自動車のアクシデントに出会つたとか、徳子が芝居見物の帰途を要されておそわれたとかいうのとは全く違つて、母が娘に家の中で、頭が痛いと云い、娘が又それに対して薬をのめと云つたということだ。このチャンスを利用出来るものは……」
 彼はここまでしやべるとふと口をつぐんで私を見た。
 何とも云えない戦慄が私の全身をおそつた。
「ねえ君、これを利用出来るものはどういう種類の人達だろう」
「うん」
 私はおもわず唸らざるを得なかつた。
「じやあ、やつぱり犯人は家庭内の人、すなわち家族か雇人だということになるのか」
「そうなりやいよいよおあつらえ通り『グリーン家の殺人事件』になるわけだね」
 彼はこういうと立ち上つて私の肩に手をおきながらささやいた。
「しかしね小川。そう断ずる為にはわれわれはある一つの勝手な仮定を前提としてしまつていることを忘れてはいけないぜ」

      8

 彼はそういうと立つてまた机の所に行き、別な紙片をとつて私の前に腰かけた。
「ところで昨夜の事件だが、これに又いろいろ妙な所がある。秋川一家の人達の様子なのだが、君は気がついたろうが、なんとなく僕はあの家庭が気にいらないね。又『グリーン家の事件』の話になるが、あの小説では探偵がグリーン家にはいるとすぐなんとなく冷たい感じがしたということになつている。我が秋川一家はまさかそうではない。これはつまり小説と事実との相違だけれども、しかし秋川家も何か起りそうな感じの家庭だよ。
 次女さだ子に婚約者があつて長女ひろ子にそれがないというのは必ずしも異例とは云えないけれ共、さだ子の婚約者たる伊達という男ね。一体あの男と秋川家との関係を君はどう思う? 次に最も注目すべきは、結婚と共にさだ子に秋川家の財産の三分の一がゆく、すなわち、名義はさだ子のものでも常識では伊達という家にこの財産がゆくという事実だ。僕の知つている所では、秋川駿三には四人の子がある。その次女に全財産の三分の一がゆくんだぜ。
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