の表情がひろ子の顔にあらわれた。
少しの間をおいて彼女は云つた。
「なにぶん、そんな騒ぎの最中ですもの、私ゆつくり考えている間はございませんでしたわ。すぐ皆して木沢さんに来て頂いたりなにかしたのですもの」
「そうですか。いや尤もです。では改めてききますが、その言葉を今からゆつくり考えてあなたはどう思います」
再び困惑の様子を彼女は表わした。
「さあ、私よく判りませんけれど、今から考えると、さだ子にすすめられてその薬をのんだのだとか、又はさだ子に薬をのまされたとかいうのじやないんでしようか」
「のまされた?」
検事はじつとひろ子の顔を見ていた。つづいて彼はおそらくこういうにちがいない。
「じや、のまされた[#「のまされた」に傍点]とお母さんが云いそうな状態がさだ子とお母さんの間にあつたのですか。毒をのまされたという状態が?」
ところが意外にも検事はこの重要な質問を留保した。これは後に藤枝が私に云つた言葉であるが、さすがにものなれた奥山検事は、相手が若い女性でしかもこちらの質問を充分緊張して警戒してきいている際、このクライマックスでそういう重大な問をうつかり発すると、相手はしばしばうそをいうものであり、捜査方針を誤らせることがあるのを充分心得ていたものと見える。
検事の質問は意外な方向にとんだ。
「きのうあなたはずつと家にいましたか」
「いいえ、用事でひるから出かけました」
彼女はこう云つてちよつと藤枝の方に目をやつた。
「そうしていつ頃帰宅しましたか」
「そうです。多分四時すぎ頃でした」
「それから夕食までは」
「夕食までずつと下の広間でピアノをひいておりました」
「お母さんは、あなたの帰宅当時どんなようすでしたか」
「母は座敷に、床《とこ》をしかずに横になつておりました」
「では、薬屋に風邪薬をとりにやつたことは少しも知りませんでしたか」
「はい、母が死ぬまで存じませんでした」
13[#「13」は縦中横]
「妹さんにさつき聞いたのですが、夕食には家族の方が全部一緒だつたそうですね」
「はい、それに伊達正男さんが加わつていました」
「伊達という人は妹さんの婚約者ですか」
「はい、左様でございます」
「いつもあなた方と一緒に食事をするのですか」
「はい。来られますといつも一緒に」
「ではこのやしきに住んでいるのではないのですな」
「最近まで邸におりましたが、この二月《ふたつき》程前から近所に小さい家を一軒借りておられます」
検事は何かちよつと考えていたが、ふと何気なく訊ねた。
「妹さんの婚約はもう余程前からですか」
「いえ、まだこの二ヶ月前ぐらいです」
「では婚約と同じ頃に伊達という人が別になつたのですね」
「はい、つまり妹が結婚致しますと伊達さんが今いる家に入るわけになるのでしよう。でも詳しいことは私よく存じませんわ」
「もう一つききますが、その婚約には御両親は無論賛成されたのでしようね」
「はい、父は大へん喜んでおりました。むしろ父の方から進めた話なのです」
「では、お母さんは?」
私は、この時のひろ子の複雑な表情を決して見逃さなかつた。
「母も……母も婚約そのものには別に反対は申さなかつたようなのでございます。ただその条件について父とは大分意見が合わなかつたようで……」
「条件というのはどういうことです」
「なんでも財産のことなんですの。なんでも父はさだ子にかなりの財産をつけて嫁にやろうと申すのでしたが、母がそれについて反対のようでございました。でも、私そういうことよく判りませんから、なんでしたら父にきいて見て下さいましな」
「お父さんには無論ききます。……では夕食後あなたは?」
「私自分の部屋にはいつて小説を読んでおりました」
「小説つてどんな本です?」
藤枝が妙な質問を発した。
ひろ子は藤枝の方を見ながら、親しそうなようすで、
「ヴァン・ダインのグリーン殺人事件という本ですの」
とかるく答えた。
「ああ Greene Murder Case ! そうですか」
藤枝はこう云つてぷかりと煙を輪にふいた。
「あなたはずつと部屋にいましたか」と検事。
「いえ、それから八時頃ちよつと母を見舞いに座敷にまいりました。すると」
「すると?」
「そこで伊達さんが何か母と話しておりますので、すぐまた部屋に戻りました」
「伊達はずつとお母さんの所におりましたか」
「まもなくさだ子の所にまいつたようでした。今度はさだ子が母の所に行つたようでした」
「ほほう。どうしてそれがわかりました」
「私が手洗いにまいりました時、さだ子の部屋の前を通りましたの。その時、ふと妹に用があるのを思い出してノックしながら戸をあけますと、中に妹がいないで伊達さんが一人椅子に腰かけておりました。で、私はさだ子はおりませんの? と
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