だよ。あれは誰にもすりかえられなかつた、という意味だ。見給え、早川辰吉はちやんと『帯の間から薬を出して私に見せたのです』といつたのだつたか僕に自白したじやないか。(被疑者第五回参照)女が恋人を犯人と信じた場合、死んでも彼女は恋人を裏切るものじやない。林田はこの心理をちやんと知つていたんだ。実さい、あいつ程女性の心理をよくつかんでいた男はないよ。余りつかみすぎたためにその色彩が強くなつた恨みはあるがね。彼こそ全く、マクベス夫人が何故夫にダンカン王を殺させたか、ということをよく知つていた男なのだ。小川君にはかつて云つたことがあるが(殺人交響楽の項参照)犯罪には必ずその犯人の心理が出る。個性が出る。秋川殺人事件の中で見逃し難いのは恋する若き女性の心理を利用する[#「恋する若き女性の心理を利用する」に傍点]というテーマがその第一楽章に出ているが、すぐつづいて第二楽章にも現れている。すなわちさだ子が……」
「まあそんな理窟はいいから、林田の犯行を説明したまえ」
 藤枝のペタンテイックなおしやべりに堪りかねて検事が口を出した。
「うん、そうさ。そこで十七日に林田は薬をすりかえてさつさと帰つてしまう。それからあと、秋川家で起つた事件は御承知の通りだ。偶然にも夜になつて母とさだ子が争いはじめて、林田の予期しなかつた位うまくことがはこんだ。あの夜の事についてはひろ子の供述が一番信頼出来ると思うよ。

      6

「彼女が何故あんなにおそくヴァン・ダインを読んでいたかは後に説明する。が、これは不思議なことだが、にもかかわらず事実だ。さだ子も、夜ねついた時の事は真実と云つている。それからあとの出来事は御承知の通りさ。
「十八日になつて林田はことがうまく行つたことを笹田執事の迎えで知つた。すると彼はダイ一カイノヒゲキハオコナワレタリ、云々という手紙を三通タイプライターで打つて持参し、同時に一方僕に『五月一日を警戒せよ』というあの手紙を郵送しておいて秋川邸にかけつけた。門の所で、執事をさきに中に行かせ、郵便受箱に、自分宛、僕宛、秋川駿三宛のさつきの脅迫状を投げこんだのだ。これで、あの日、僕らの所に脅迫状が来たわけが判つたろう。児戯にひとしきことだよ。(秋川一家の惨劇の項参照)ただ偶然にも彼はこの日二個のタイプライターを使つた。
「ところで十八日にかけつけた林田が何故すぐ僕らの所に来ず下で主人を調べはじめたか。これは今から思うと非常に重大な点なのだ。(悲劇を繞る人々第十六回参照)実は彼、何より先に佐田やすの様子が知りたかつたのだよ。つまり、自分のいつた言葉の効果を見極めるのみならず、自分の言葉を更に強調したんだ。林田はあの日、下でやす[#「やす」に傍点]を訊問すると称して、また一そうおどかしたのだろう。十七日の彼の言葉の力で、われわれがいきなりやす[#「やす」に傍点]を調べた時にやす[#「やす」に傍点]は既に嘘をいつた。そこへもつて来て林田が又うんとおどかしたんだ。貴様がうつかりしたことをいえば早川という男が捕まるぞ。しかしお前がだまつていれば俺がかばつていてやる、というようにもちかけたのさ。君らは、早川辰吉の供述中四月二十日にやす[#「やす」に傍点]に秋川邸の庭で会つた時、やす[#「やす」に傍点]が辰吉に自分にたつた一人親切にしてくれる人があつて自分をかばつて[#「自分にたつた一人親切にしてくれる人があつて自分をかばつて」に傍点]くれるという言葉があつたのをはつきり思い出すだろう。(被疑者第八回参照)可哀想にやす[#「やす」に傍点]は、林田が自分を利用しているとは思わず、ひたすら彼の親切に頼つていたのさ。思いは同じさだ子もまた……ということになるのだがこれは後の話だ。
「さて、林田の魔術ですつかりやす[#「やす」に傍点]はおびえてしまつて、絶対に誰にも会わなかつたと主張していたことは諸君の御承知の通り。いや高橋さんや僕が手古摺つた通りだ。
「ところが、林田の魔術が段々ときかなくなる時が来たのだ。彼ははじめは女性の心理を捕えて安心していた。それ故にこそ五月一日に第二回の犯罪をやる気でいた。それが急に二十日に行われた。何故だろう。いうまでもなく、五月一日までは待てぬ事情が起つたのだ。どこかに彼の計算のまちがいがあつたというわけなんだ[#「どこかに彼の計算のまちがいがあつたというわけなんだ」に傍点]。(殺人交響楽第七回参照)それはすなわちやす[#「やす」に傍点]の心理の動揺だ。元来、彼女は辰吉をただひたすらに恋してのみいたのでないこと、くどくも云つた通りだ。もし彼女が林田の信じた通り、絶対に辰吉に恋をしていたとすれば、ことは彼の思う通りとなり、五月一日まで犯罪がまたれていたはずなんだ。ところが、彼女は一方に於いて辰吉を嫌つていた。そこへもつて来て、警察
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