玄関を上るか上らぬところへ電話のベル。あわてて出て見ると、はつきりした藤枝の声がする。
「小川か。今帰つた。すぐ事務所に来てくれ」
4
ひろ子の顔も見たいが、長途の旅――藤枝は旅先を私に告げなかつたけれども、多分遠い所まで行つたことと思われる――から今着いたという彼が、しかもすぐ来てくれというのだから、すげなくこれを断るわけにも行かない。私はすぐにオフィスにかけつけた。
「やあ早速ありがとう。今着いたばかりなんだ」
成程、着いたばかりらしく、室の中にはスーツケースがおいてあるし、旅に出た時と同じ軽装だが、二、三日顔の手入れをしないと見えて、無精ひげが大分のびている。
「一体君、どこをどうしていたんだい。何とか便りをしてくれなくちや、全くたよりなかつた[#「全くたよりなかつた」に傍点]よ」
「うん、失敬、失敬、時に留守中かわりはなかつたかい」
「ああ、まあね。大して事件はない。君の電報通りひろ子のことはほつておいたが、君も新聞で読んだろうが、彼女は毎日よばれて可哀そうだつたよ」
「そうか。まあうらめしそうに云い給うな。伊達はそれじや嫌疑がはれたわけだね」
「まあそうさ。時に彼は病気でねているぜ」
「え? 誰が?」
「伊達がさ」
「いつから?」
「君が出発した翌日からだ。つまり二十七日から」
「ふうん、そうしてそれからずつと」
「うん、今日もまだ床についているそうだ」
「成程、これは思いがけないことだつた。しかし外のことは大抵僕の想像した通りだ」
「ところが、君は、ひろ子がいつまで疑われていると思う? たつた今、嫌疑がはれて帰宅したそうだよ」
私の言葉をきくと藤枝は何故か緊張した顔になつた。
「君はどうしてそれを知つてるんだ? 秋川邸へ行つて来たのかい」
「いや、ちがう。もうちよつと前林田からしらせてくれた。林田は警察できいたそうだ」
「何だ君、君は自分の情緒をあの男にしやべつたんだな」
藤枝はこういうとニヤリと冷やかすように私を見た。私も、彼がこの時、恋とか愛とかいう言葉の代りに情緒という妙な字を使用したのを多少おかしく感じてニヤリと笑つてやつた。
「もう四時すぎだね。よしこれからすぐ秋川家に行くんだ。旅の報告をせにやならん」
「じや車を云おうじやないか」
十分程たつてからわれわれ二人は車上の人となつていた。
この日は小雨が朝から降りつづいて、至極陰気な暗い日だつた。
メーデーの行列を閉口させない程度の雨が一日降りつづいて、四時半頃には、もうあたりはかなり暗くなつていた。
この日の天候は、この日行われた惨劇に大へん関係があるのだから、読者ははつきりおぼえていて頂きたい。
秋川邸に着いたのは四時半すぎだつた。
笹田執事が取りついで、われわれは応接間に通された。
木沢氏がちようど来ている所だつたので、藤枝はまず木沢氏に面会を求めた。
「藤枝さん、御旅行だつたそうで、小川さんからききました」
「え、急用で出かけました。それで今帰つたのですが、大変切迫した用で、ここの主人に是非会いたいのですが如何でしよう」
「さあ、御主人はずつと病気ですが」
5
「それは小川から聞いています。しかし大病という程ではないのでしよう」
「この前と同じ神経の興奮です」
「どうでしよう。会えませんかしら」
「お話の工合によります。つまり神経をたかぶらせるような話はこの際絶対にさけて頂きたいと思います。これは医師の立場として、はつきり申し上げておきます」
彼の言葉には科学を信奉するものの冒しがたき調子があつた。
一方藤枝の態度は、しかし極度に緊張していた。
「木沢さん、よく判りました。しかし私の云うこともよくきいて頂きたい。私は切迫した事件の為に非常に忙しい旅行をして来ました。そしてその結果を一刻も早く――そうです、一刻も早くここの主人に告げる義務を感じるのです。これは私の職業的良心が命ずるのです。ちようどあなたが医師としての立場から云つておられるようにね。木沢さん、あなたは、このうちの不思議な事件を御承知でしよう。何者とも判らぬ犯人の為に、この一家は一人一人死んで行くようになつてしまつているのです。そうして、あとに残つている三人の生命をわれわれは全力をつくして保護しなければならない。これは私のつとめです。不幸にして、われわれの努力は空しかつた。そうして危険は一刻一刻と迫つている。私はこの室の空気の中にそれを感じます。私がこの家の主人に会うことはこの危険を少しでも早く取り去り得ると信ずるのです。云いかえれば、今私が主人に会わずに行つては、今日にも誰かがまたやられるかも知れません。木沢さん、あなたの立場もよく判ります。しかし危険の迫つていることはたしかです。しかも人の生命は絶対です。どうでしよう、死ぬよ
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