として、ひよいと裏返して見たが、おもわず、アッと叫ぶ所であつた。
第一の悲劇
1
見よ。そこには、はつきりと赤い三角形の印《しるし》が押してあるではないか?
私はそれを見た刹那[#「刹那」は底本では「殺那」]、すぐにこれを、ひろ子嬢に手渡していいかどうか、ちよつと考えざるを得なかつた、ひろ子嬢は、しかしその間にもうその手紙の恐ろしい三角形を認めてしまつたらしい。
「あら! ここにもこんな物が? あの私にですの?」
さすがはやはり女だ。今までしつかりとしていた彼女も、この手紙の印を見ては全く面喰つたらしい。膝の上から危くすべり落ちそうなハンドバッグをやつと握りしめた。
けれど、一番敏活に行動をとつたのは藤枝だつた。彼は私の手に何があるかを見るや素早く立ち上つてドアをあけた。
次の瞬間、ドアの外からこんな会話がきこえて来た。
「オイ、給仕、今の手紙はどうしてきたんだ」
「使いの方が持つて来たんです。メッセンジヤーボーイのようでした」
「もう帰つたかい?」
「あの手紙をおくと直ぐに帰りました。受取を書こうとしているのに、いらないと云つて!」
「そうか」
藤枝が再び戻つて来た時は、私はひろ子嬢とただ黙つて顔を見合わしていた。
「畜生! ふざけたまねをしやがる」
藤枝は、一人こう云いながら、椅子に腰かけたが、令嬢の前でとんだ乱暴な言葉を出してしまつたのを悔いた調子で云つた。
「いや、これは失礼しました。誰かのいたずらですよ。しかし、あなた宛の手紙です。一応ごらんになつては如何ですか。そしてもしお差し支えなかつたら、後で私に見せて頂きましようか」
しかし、ひろ子嬢の顔色はまつたく青かつた。
「あの……私何だか恐ろしくつて……どうか開けて見て下さいませんか」
藤枝は、こう云われると少しも遠慮なく、その手紙を手にとつた。
「これは今までお宅へ来たのと同じ封筒ですか」
彼は、強いて平気を装うて、ひろ子嬢をおちつかせようとしているらしかつた。ペーパーナイフを側の机の上からとると、器用に、封をすつすつと切りながらつけ足した。
「御心配になる事はありませんよ。こんないたずらをする奴に限つて、決して恐ろしいまねなんかしやしないのですからね」
ひろ子嬢は、しかしもう何も云わなかつた。否、云えないのだ。私もどんな手紙が出て来るかと、固唾をのんで待つていた。
封筒の中からは卵色の洋紙が出て来た。
一応藤枝が目を通して、それからひろ子嬢と私の前に出したのを見ると、邦文のタイプライターで全部、片仮名で次のような文句が書かれてあつた。
[#ここから1字下げ]
タダチニ、ウチニモドルベシ。ナンジノイエニ、オソルベキコトオコラン。カカルトコロニ、イツマデモイルベカラズ。
[#ここで字下げ終わり]
「つまり、あなたに直ぐ帰れと云うんですな」
藤枝は、にこやかにひろ子嬢に話しかけた。
「あの、私がここにまいつておりますことなんか、誰も知つているわけがないのですが」
令嬢は青くなつて立ち上つた。
「秋川さん、そう御心配になるには及びませんよ。まださつきのお話もすつかりうかがつてないのですから、もう少しお話し下さいませんか。私もついているのですから大丈夫ですよ」
2
藤枝は、秋川ひろ子の話に余程の興味をもつたらしい。肝心の所で、話が途切れかかつたので、後をつづけさせようと、しきりとひろ子を落ち着かせて、その後をきこうとした。
しかし、さすがの彼の雄弁と努力も、目《ま》のあたり今きた三角の印が、ひろ子に与えた影響にはかなわなかつた。
やはり弱い女性である。しつかりしているように見えても秋川ひろ子は矢張り女である。
私はそう感じたと同時に、この三角形の印のある手紙が、最近どんな恐怖を秋川父子《おやこ》に投げ与えているか、という事もはつきりと感じられた。
おそらく、ひろ子が、これから語ろうとした事実には余程深刻なものがあるらしい。
藤枝が頻りとききたがつていたのも無理はない。
約二、三分、藤枝はいろいろとひろ子を説得したけれども彼女はもう腰がおちつかず、
「でも私……何だか恐ろしくて……」
と云つて立ち上りかけていた。
こういう有様では、とうてい今ここに落ち着かせる事は出来ぬと悟つたか、藤枝は、とうとうこう云つた。
「私は決してそう御心配になる事はいるまいと、思うのですけれど……まだすつかりお話をうけたまわり切れぬうちに、そう断言するのも軽率[#「軽率」は底本では「軽卒」]ですから、それほど心配になるならすぐにお帰りになつたらいいと思います。……しかし、まだ、明るいですが、一人でおかえしするのは、ちよつと心配ですから……」
彼はこう云つて私のほうを見た。
「いえ、私一人で結構でございますの」
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