夫というのが、かりにやす子に恨みがあつたとしてもどうして弟をあんな目にあわせたんでございましよう」
「さあそこです」
「私には、やす子に恨みのある者が弟を殺さなければならない、という理由がどうしても判りませんわ。弟がその犯罪を邪魔したか、現にそばで見ていたかしない限りは……それにしても駿太郎のような子供にそんな邪魔が出来るわけはなし、また唖でない限り、黙つて見ていたとするのもおかしゆうございますわ。先生、そうお思いになりません?」
「そうです。そういう考え方はたしかに正しい考え方だと私は思います」
「それに、やすや[#「やすや」に傍点]の知り合いの男なんか駿太郎が知つているわけはないじやございませんか。駿太郎はたしかに、あのピヤノの部屋から誰かよく知つている人間[#「知つている人間」に傍点]にさそい出されたにちがいないと思いますの」
彼女はこうはつきり云つて再び藤枝の顔を見た。
この時、ドアがあいて、笹田執事が、三人分の紅茶を盆にのせてうやうやしくもつてはいつて来た。
3
ひろ子のひどく論理的な質問にいささかタジタジになつていた藤枝は、笹田執事がはいつて来るのを見ると不意に彼の方に話を向けた。
「おや、あなたが小間使の役ですか。女中さん達はどうかなさつたのですか」
「はい、昨夜あの騒ぎで皆殆ど眠りませんので、今日はやすませてございますので」
笹田執事は不器用な手つきで紅茶の茶碗をテーブルの上に無事に並べ終ると、余り多くを語らずに部屋を出て行つてしまつた。
「今笹田が申しました通り、女中は皆休ませてございますの。ですけれど、何だかすつかりおびえておりまして部屋から出てまいりませんのよ。どうも三人でひそひそ話をしている所を見ますと、暇でもとろうというのじやないかとおもいますの。でも無理もありませんわ。こんな気味の悪い家に! 私が女中だつたら一日だつていることは出来ませんものね。ほほほほ」
ひろ子はこう云つて笑つたがそれは決して朗らかな笑いとは云えなかつた。
「ひろ子さん。今日は大切な事を一つあなたにお頼みしておきたいのです。御承知の通り昨夜あの事件の起る前に、私はお父様に重大な質問をしていたのです。つまりどうして脅迫状の事をかくしていたかという事、及び伊達正男という人と、御当家との関係についてです」
「存じておりますわ」
「ところが、不意におこつたあのさわぎの為に、お父様のはつきりしたお答をうかがう折を失つてしまつたのです。今日になつてうかがおうと考えたのですけれど、御病気だということです。かりに御病気でないにせよ、私は官憲ではないのですから、お父様が私に会うことをお断りになれば強いて御目にかかるわけにはいきません。して見れば、まず私はお父様からは答えて頂けないものと思わなければなりません。林田君だつてそれはきけないかも知れない。結局、これはあなた方お子さんが直接おきき下さるより外に道はないのです。勿論私自身の方でも伊達という人の素性を取調べ中ではありますが[#「勿論私自身の方でも伊達という人の素性を取調べ中ではありますが」に傍点]……」
何故か藤枝は最後の言葉を極めて力強く云つて暫くじつとひろ子の顔をながめた。
「あなたか、さだ子さんか、初江さんにこのことはお頼みしたいのですが、さだ子さんと初江さんは私をどの程度に信じていて下さるか判らない。あなたなら私を信じていて下さると思いますから……」
「無論でございますわ」
「ですから、是非ともお父様にあの点をはつきりきいていただきたい。勿論、機会を捕まえなくてはいけませんよ。むやみにお父様を責めたつてだめですよ」
ひろ子はにこやかに微笑した。
「判りました。おつしやる通りにやつて見ます」
彼女は充分引き受けたという調子で、紅茶を一口ぐつとのんだが、急に藤枝を見ながら、
「ではやつぱり先生も! あの伊達さんを」
と云い出した。
「え! 何ですか」
「つまり早川とかいう男が犯人とは信じていらつしやらないのでしよう」
「どうしてですか」
「でももし早川が犯人だとすれば伊達さんのことなんかお調べになることはないのではございませんの。結局早川とかいう人以外に犯人があるとお考えになつていらつしやるのでしよう」
彼女はちよつと微笑を表わした。
「ひろ子さん。誤解してはいけません。早川の話と伊達君の話はまつたく別ですよ。ともかく伊達君の事をはつきりきいて下さい」
彼は口ばやにこう云い終つた時ドアがあいて、さだ子が憂わしげな顔をしながら、部屋の中にはいつて来た。
4
我国には昔から「雨に悩める海棠《かいどう》」という形容がある。この時のさだ子が私に与えた印象位、この言葉にしつくりあてはまつたようすを私は今まで見たことはない。
勿論、秋川一家の人々
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