を、乗合自動車の中で見かけたのです。私は歩いていたので、そのまま追つかけるわけにはまいりませんでしたが、それからというものは渋谷の方に居《きよ》をうつして毎日毎晩あの辺を見張つておりました。
 偶然の機会から、渋谷の小さなバーで彼女らしい者がその近くのバーにいることをききましたので早速行つて見ますと、二、三日前にひまを取つたばかりの所でした。それは本月のはじめのことであります。
 しかしこれまで判れば、あと探すことは余程楽になりました。私は彼女の兄弟ということで、そこの店でいろいろききますと、大分探り出すことが出来ましたので、更にやす子が頼みに行つたらしい桂庵を捜しますとちようど本月八日に、牛込の秋川という家に奉公に上つたということが判つたのです。どこをどう胡魔かしたのか、ちやんと姉という人が保証人になつておりますそうです、がそれは渋谷のバーに一緒にいた年上の女で、今は男と一緒になつて一軒ちやんと店をもつている人らしいのです。
 私は、その日から今おります下宿に岡本一郎という偽名ではいり込んで、毎日秋川家の様子を見ておりました。勿論、はじめの考えでは、いきなり秋川邸に彼女を訪ねるつもりだつたのですが、さて門の前まで行つて見ると、余り立派なので急におそろしくなり、いつか彼女が出て来たら会つた方がいいと思いなおしました。電話をかけて相手に警戒されるのもつまらぬと考えて機会を待つていたわけです。するととうとうその機会がやつて来ました」
「ちよつと」
 藤枝が、急に口を出したが、ちらと警部の方に許しを乞うような顔付をした。
 警部も別に反対しなかつたらしいので、彼は早川辰吉の方に向き直つた。
「それがつまり今月の十七日の午後だつたのだろう。佐田やす子が秋川邸を出て薬屋に行つた時、君は彼女に会つたわけだね」
 この質問は私にとつてはまつたく意外だつた。
 しかし早川は別に驚きもせずに答えた。
「はあ、本人もそう申しましたのですか。おつしやる通り、あの日の午後、私はやつとやす子をつかまえたのでございます」

      5

「会つた時の話を詳しくしてごらん」
 今度は警部が早川に向つて云つた。
「はい。あの日、やはり私は、いつもの通り秋川家のまわりをうろうろしておりますと、何時頃でしたか、ともかく夕方、裏門から彼女らしい女が出てまいるのです。すぐにかけつけて話をしようと存じましたが、彼女は何かひどくいそいでおりますので、私は考えをかえ、ひそかに尾行してまいりました。すると五、六町も行つた所の西郷薬局という店にはいりました。私は一分を一時間位の気もちで持つておりますとやつと出てまいりましたので、曲り角でいきなり彼女に出会したのです。
 この時のやす子の驚きは申し上げるまでもありません。私は今まで思つていたことが一時に胸に迫つて来て何から云つてよいやらほんとにわけが判らなくなつてしまいました。しかし何分往来中のことでもありますので、二、三町廻つた所の小さな公園の中にはいり、ベンチに腰をかけて六、七分ばかり話し込みました。無論彼女は逃げよう逃げようとしていたのでありますが、私がおどかしてつれて行つたのです。
 ところが、やす子は、帯の間から薬の包を出して、何分今急病人があつてこれを取りに行つたのだから、今は長い話はできぬと申して逃げようと致しました」
「ちよつと君。やす子はその薬袋を手にもつてはいなかつたかね」
 藤枝が言葉をはさんだ。
「いえ、帯の間から出して私に見せたのです。私も、ともかくここで長い話はできぬ。では今はこれで別れるが今夜ひまがあつたら会おうじやないか、と申し出しました。それまで彼女は、決して情夫なんかあつて逃げて来たのではない。これには深いわけがあることだとしきりと弁解しておりました。今度、僕が邸の塀の外で草笛をふいたらそれを合図に必ず出て来い、出て来ないとどんな目にあわすか判らないぞ、とこう申して仕方なく十七日の午後は別れました。その夜、塀外でしきりと合図を致しましたが、一向やす子は出てまいりませぬ。癪にさわつたので電話をかけて見ますと、いきなり外の女の声がしたので何も云わずに切つてしまいました。
 そのあくる日、朝から見張つていると、何事が起つたか、朝から警察の方々がしきりと秋川家に出入していられるようです。こりやどうしたのかなとふしぎに思いながらその日の夕刊を見るとあの始末です。これじやとても今日はやす子が出ては来まいと、十八日中はあきらめて、帰つてしまいました。
 十九日の朝早く、電話をかけますと、ちようど偶然やす子が出て来ました。今夜はあわねば殺してしまうぞと勿論これはおどかしで申したのですが、今夜は明日の葬式の為にとても出られぬと申します。じやあしたの夜、すなわち、昨夜です。二十日の夜合図をしたらきつと出て来い
前へ 次へ
全142ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング