んと遠ざかつてしまいました。
「二十歳の春に私はバーに通う事を知り、その年の秋には茶屋酒の味を知りました。私はほんとうに淋しかつたのです。父母が生きていてくれたら……何度、どんなにこう心で叫んだか分りません。一番近いと思つていた親戚に裏切られた私は、色街にさまよいながらもいつも他人の――ことに異性の親切、真心をしたい求めるようになつたのです。
 私が、全く酒色に溺れ、とうとうある廓の女と懇ろになつたのは、真に叔父にとつては思うつぼでした。彼は私の知らぬ間に、親族会議を開いて私が到底父の業をつげぬ男だということを親戚一同にも認めさせ、公然と私の家を乗取つてしまつたのでした。御上の前で恐れ入りますが、実際こういう人間が平気で大きな顔をしてくらしておるなんて、世の中というものは変なものだと思います」
 辰吉は真実うらめしそうにこう云いながらわれわれの方を見た。警部は石のように無表情で彼のいう事をだまつてきいている。藤枝はしかし、いかにも同感というような顔付で、早川辰吉をながめた。
「私の家を乗取つた叔父は公然と私を追い出しました。否私の方からとび出たのです。そうして南地に出ていた金三という芸者と大阪市外に半年程同棲するようになりました」
「その姓名は?」と警部がちよつと口を入れた。
「岡田かつ子と申しました。当時は未だいくらか金もありましたので、二人でのんきにくらしておりましたが、半年程一緒におりまして事情があつて別れました。これが二十一才の時であります。それから後懇意になつたのが、今度事件になりました佐田やす子という女で、これは道頓堀のシュワルツエ・カッツエというバーの女給でした。
 昨年の一月頃に私はそこへ行つて懇意になりました。当時やす子ははるみ[#「はるみ」に傍点]という名で出ていました。その頃はもう余り金もなく、公然と一緒になるのもうるさかつたので、忘れもしませぬ、昨年の一月廿八日、二人で大阪を逃げ出しまして、名古屋におちついたのでした。名古屋には、やす子も元いたことがあるという事だつたので、都合がいいと思つたのです。
 昨年の七月までは、無事に二人で何とかして暮していたのですが、いよいよ生活が苦しくなつたので八月からやす子をまた名古屋のあるバーに出して働かさなくてはならない状態になつてしまいました。
 私は、式こそあげないでも、まあ私の妻であるやす子を、バーに出すということには多少の不安を感じないではありませんでしたけれども、今申したように金が無くなつたので、これはどうもやむを得ないことだつたのです。
 やす子の様子が怪しく思われはじめたのは九月|半頃《なかばごろ》からでしたが、でもこれは私の邪推だと思つて我慢をしておりました。丁度その頃私も何か働かなくてはならないので、やつと小さな印刷屋に、毎日出て働く口を見つけ[#「見つけ」は底本では「目つけ」]ました。
こうやつてまず九月は無事にくらしたわけです。
 十月にはいつて丁度五日の日でした。私は終日働いてやつと夕方六時頃、うち――といつても無論間借りなのですが――に帰つて見ると、やす子がいないのです。気がついて見ますと、やす子の持物が全くありません。畜生! 情夫を作つてとうとう逃げやがつたな! と私は思いました[#「ました」は底本では「ました。」]」

      4

「それから私はおはずかしい話ですが、全くやす子を探すので夢中でした。私は毎日餓鬼のようになつて名古屋中をうろうろたずね廻りました。やす子の出ていた店は勿論、バーとカフエーを片つ端からたずねあるきまわりましたが全く彼女の行衞《ゆくえ》が判りませぬ。
 十一月なかば頃まで探しましたが何処へ行つたのかさつぱり見当がつきません。それで十一月になつてから、再び大阪に戻つたのです。彼女の逃げた相手の男の手懸りさえあれば、勿論何とかなるのですが、てんでその相手さえ判らないのです。
 大阪に戻つて恥を忍んで一時叔父を訪ねましたが、叔父は全く相手にしてくれません。それで私は、又労働をしたり色々なことをしながら大阪中を探しまわりました。
 昨年中大阪におりましたが、元のつとめ先のシュワルツエ・カッツエという家の、他の女給の話から彼女が東京に行つているようなことをちらとききましたので、旅費を工面すると早速上京いたしました。それが今年の一月のことであります。
 東京は広い上に、何分私ははじめての所なのでどこをどう探していいかさつぱり判りませぬ。銀座のバーを片つ端からたずねようと思つても、金がなくては表からはいるわけにも行かず、その間私は新聞を売つたり何かして云うに云われぬ苦心をいたしました、女一人の為に馬鹿な話ですが、私は全く夢中だつたのです。
 でも、一心というものはおそろしいもので先月はじめに、渋谷の方で、彼女の姿らしいもの
前へ 次へ
全142ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング