りに行くと階段の右側に大きな戸がある。藤枝はノックをしながら、
「林田君、藤枝だ。はいつてもいいかね」
というと中から林田の声で
「うん、いいとも。どうぞ」
という声がきこえた。
それに応じて藤枝と私とは部屋にはいつた。
途端に目にうつつたのは、こちら向きに腰かけている佐田やす子の顔だつたが、相当烈しく林田に問いつめられていたと見え、まつさおになつて目のふちには涙のあとが充分に見える。手にもハンケチが惨《いた》ましくふるえているのがすぐ判る。
「実に剛情だ。こんな女ははじめてだよ藤枝君、一つ君の腕で充分調べて見給え。何なら僕は遠慮しようか」
「いやいや、君の前できいて見よう」
こういつて藤枝は佐田やす子に対してわりにおだやかに質問をはじめた。
「どうも君のいう事が判らないんだがね。度々いう通り、あの日まつすぐに西郷へ行つてまつすぐに帰つたのかね」
「はい……只今全部林田先生に申し上げた通りでございます」
「林田先生に云つた通りとは、このあいだ云つた通り少しもまちがいはないと云うのかい」
「はい……」
彼女の答はこれで終始していた。
私と林田とを傍において藤枝はしきりといろいろな方面からやす子を問いつめていたが、まつたく高橋警部の云つた通り、さすがの藤枝もおとといの検事の取調べの時から一歩も進む事は出来なかつた。
林田はこれもやはり警部の云つたように、不成功だつたと見え、苦りきつて女を見つめている。彼には佐田やす子のようすが余程癪にさわつたらしい。
4
私は藤枝が、相変らずおだやかな調子でやす子に問を出している間にはじめてこの部屋の中を注意して見廻した。
此部屋は居間ではなく、まず客間ともいうべきものだろうか、令嬢達の親しい友人等を通す所と見え、われわれがはいつて来たドアからはいると左手の壁にそうてかなり大きなピヤノがおいてあり、右手の壁には立派な西洋画がかけてある。ドアにそうた壁の下の方にはストーヴが冬中おかれてあるものと見え、そこがくりぬいてあるが今は洋風のついたてでかくしてある。そのすぐ上に四尺に三尺位の鏡が壁にはめこんであつた。
その他部屋の中の道具は皆立派なもので、ほかの部屋の飾りと共に充分富の程度を表わしている。
われわれがはいつて来たドアと反対の側には三つの大きな窓があつてその向うは広い庭らしいが、もう暗いのでよく判らない。
庭に面した窓と右手の洋画のかかつている壁と直角に交わつている隅に、立派なヴィクトローラ(蓄音機)が一台おいてある。
[#客間の配置図(fig1799_01.png)入る]
何故私がいそがしい今、こんな煩わしい描写をしたか。読者は充分にこのピヤノの部屋の有様を記憶しておいて頂きたい。後におこつた惨劇を解する上に甚だ大切なことだから。
さて、藤枝のやす子に対する質問は、もし今までやす子が嘘を云つていたとすれば、一言にしていえば、まつたく不成功であつた。
彼はやはり高橋警部、林田英三を一歩も追いこすわけにはいかなかつた。
とうとうあきらめたものか藤枝は林田に向つて、
「僕はもうこの位でいいと思うんだが、もう君はいいかね」
と云い出した。
「いや、僕もいい。今までやつたんだがやはりよく判らんよ」
「じや、どうも御苦労、もう部屋に戻つてもいいぜ」
藤枝にこう云われてやす子はやつと安心したやうに椅子をはなれて入口のドアの方へとゆきかけた。
藤枝と林田はお互いに不成功を慰めあうつもりか、苦笑しつつ顔を見合わせたが藤枝は左手でシガレットケースを出して林田にすすめながら、自分も一本つまんで、右手でライターをパッとつけると林田が口にもつて行つたシガレットに火をつけてやろうとした。
ちようどその時、庭の方から草笛のような声が聴えて来た。窓があけてあつたので私ははつきりきくことが出来たのだが、別に怪しい音ではない。近所を通る書生か少年がいたずらに木の葉を口にあててふいているとしか思わなかつたのだが私が妙に感じたのは、その時のやす子の顔付だつたのである。
藤枝と林田の二人はちようどシガレットに火をつけてやり、またつけてもらつている瞬間だつたので、あるいは草笛をきいたかも知らぬがやす子の方は見ていなかつた。
やす子はその時入口の所でかるく会釈をして室外に出ようとしていたが(偶然かどうか私にはその時よく判らなかつたが)窓越しに遠くから草笛の音がきこえて来るや否や、はつとしたような顔付をした。一言で云えばそれは驚きと恐怖の表情だつた。
一瞬にして彼女はドアの外へと出て行つてしまつたのである。
この時のやす子の表情とあの草笛の音とを結びつけて考え得る人間は私一人だつたのだ。
もし私がすぐその場でこのことを藤枝と林田に告げればあるいはこの直後に起つた惨劇を防ぎ得
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