しかして之は主人駿三の意見であつて、夫人徳子はこれに烈しく反対した。結局伊達をよんで婚約すら取り消させようとしたのだ。この点は非常に重大だよ。これから察すると秋川家では、さだ子の結婚問題に関して、主人と妻が全く反対の立場に立つて今日まで来たらしい。しかして長女ひろ子は」
「ひろ子はどう思つていたのだろう」
「さつきの彼女の供述ぶりによつて君には察しがついたろう、彼女が父母いずれの意見に賛成なのかということは」
私は藤枝からこう云われて多少思い当る節があつたのである。
「ねえ君、話がちよつとそれるが、君はさだ子の顔について気のついた事はなかつたかね。またはひろ子と初江の顔について」
「さあ」
私は一言こういうより外はなかつた。さきにもちよつと記した通り私がはじめて彼女を見た時ひろ子と初江がよく似ているということはすぐ気がついた。しかしさだ子はどこか父におもざしが似ていると感じたきりで別にそれ以上考えようはないのである。
「さてそれから彼等の供述だ。一体あの人たちのいう事はどこまで真実か判らぬところがあるが、一応ずつと思い出して見よう。あの夫婦が別室にねるのは不思議ではない。ただ問題は、夫婦の寝室の間にある戸に、妻の部屋の方から鍵がかかつていたというところだ。これは少くとも我国の習慣では異例と云わなければならないね。検事のあの時の一言に対して駿三が答えた所は、必ずしもこの異例の合理的な説明にはならん。何故秋川徳子は、内側から凡ての戸に鍵をかけていたかが、忘れてはならぬ一点だよ。次にまた注意すべき点が出て来た。
「通常われわれの家で夜半《よなか》に急にさわぎがおこれば、まず泥棒がはいつたか、火事か、もしくは急病人ができたと思うだろう。ところが今日の人々は一人も火事だとか泥棒だとかは考えていなかつたようだ。駿三はいきなり、『誰だ、誰がやられた?』と云つてとび出して来た。これはさだ子が云つている。それからひろ子はひろ子ですぐ『母がどうかしたな』と感じている。そしてこれらの事実に更に、さだ子のあの取調べの時のヒステリカルな様子をくつつけて考えて見たまえ。彼女はふいに『私が母を殺すなんて、そんなこと露ほどだつて考えたことはありません』と叫んだぜ。
「最後に最も大切な点を考えよう。すなわち徳子の臨終の一言さだ子に[#「さだ子に」に傍点]という言葉だ。そしてこれに対するひろ子の解決の仕方だよ。ただし、この点に関して、ひろ子が全く嘘を云つたと思うこともできるがね」
9
「まさか!」
私は思わずこう云つてしまつた。まさかあのやさしい、ひろ子がそんな嘘をつくとは思われぬ。
「小川、相変らず君は美人を見るとすぐ信用してしまうんだね。困つた人だよ君は。美人に好意をもつのは君の自由だが、凡てを信じてはたまらないぜ。美人はよく嘘を云うものだよ。いや、もつとはつきり云えば美しい女性ほど平気でいい加減なことをしやべるもんだよ」
「だつて」
「だつても何もない。美人がひどい嘘をつく例はいくらも世の中にある。犯罪事件に関してもたくさんあるよ。君はあの有名なコンスタンス・ケントという女の殺人犯人の実話を知つているだろう。更に、マドレーヌ・スミスという美人に至つては、夫を毒殺しておいて、まるで天使のような顔付を法廷で保つていた。おかげで陪審員もすつかりだまされて無罪という判決が下つたじやないか。僕が検事をしていた時にも、十八才の虫も殺さぬような美人が情夫をうちへ引き入れている所を家人に発見されて、あべこべに情夫を泥棒だと云つて訴えて来た事件があつたよ。
「しかし僕はひろ子が嘘を云つたと断言するのではない。この点は安心したまえ。ただ彼女はいくらでも母の最期の一言を創作することが出来た筈だ、というのだ。考えて見給え。昨夜徳子の部屋にとび込んだのは、駿三とひろ子とさだ子の三人きりだぜ。そうして徳子の口に耳をよせたのはひろ子一人だ。他の二人は徳子が何を云つたか全く知らぬ状態にある。一方徳子はすぐ死んでしまつた。とすればだ、ひろ子がこの世の中で母の言葉を伝え得るたつた一人の人間ということになる。さだ子に[#「さだ子に」に傍点]と云つたかどうか果して誰が証明するか。しかしてさだ子に[#「さだ子に」に傍点]と仮りに徳子が云つたとしても、どうしてその一言を、直ちに毒を呑まされた、と解釈出来る?」
「じや、ひろ子はさだ子を疑つているのではないかね」
「そうさ。それはたしかに一つの見方だよ。けれど、そうとすれば何故ひろ子はさだ子を怪しんでいるのだろう。怪しむには相当の理由がなければならない」
「犯罪が行われた場合、まずその犯罪によつて利益を受ける人間を疑え、という諺があるよ」
「おや、君は中々いいことを知つているね」
藤枝はわざと感心したようにこういつて、ポンと煙草
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