判らない。
 庭に面した窓と右手の洋画のかかつている壁と直角に交わつている隅に、立派なヴィクトローラ(蓄音機)が一台おいてある。
[#客間の配置図(fig1799_01.png)入る]
 何故私がいそがしい今、こんな煩わしい描写をしたか。読者は充分にこのピヤノの部屋の有様を記憶しておいて頂きたい。後におこつた惨劇を解する上に甚だ大切なことだから。
 さて、藤枝のやす子に対する質問は、もし今までやす子が嘘を云つていたとすれば、一言にしていえば、まつたく不成功であつた。
 彼はやはり高橋警部、林田英三を一歩も追いこすわけにはいかなかつた。
 とうとうあきらめたものか藤枝は林田に向つて、
「僕はもうこの位でいいと思うんだが、もう君はいいかね」
 と云い出した。
「いや、僕もいい。今までやつたんだがやはりよく判らんよ」
「じや、どうも御苦労、もう部屋に戻つてもいいぜ」
 藤枝にこう云われてやす子はやつと安心したやうに椅子をはなれて入口のドアの方へとゆきかけた。
 藤枝と林田はお互いに不成功を慰めあうつもりか、苦笑しつつ顔を見合わせたが藤枝は左手でシガレットケースを出して林田にすすめながら、自分も一本つまんで、右手でライターをパッとつけると林田が口にもつて行つたシガレットに火をつけてやろうとした。
 ちようどその時、庭の方から草笛のような声が聴えて来た。窓があけてあつたので私ははつきりきくことが出来たのだが、別に怪しい音ではない。近所を通る書生か少年がいたずらに木の葉を口にあててふいているとしか思わなかつたのだが私が妙に感じたのは、その時のやす子の顔付だつたのである。
 藤枝と林田の二人はちようどシガレットに火をつけてやり、またつけてもらつている瞬間だつたので、あるいは草笛をきいたかも知らぬがやす子の方は見ていなかつた。
 やす子はその時入口の所でかるく会釈をして室外に出ようとしていたが(偶然かどうか私にはその時よく判らなかつたが)窓越しに遠くから草笛の音がきこえて来るや否や、はつとしたような顔付をした。一言で云えばそれは驚きと恐怖の表情だつた。
 一瞬にして彼女はドアの外へと出て行つてしまつたのである。
 この時のやす子の表情とあの草笛の音とを結びつけて考え得る人間は私一人だつたのだ。
 もし私がすぐその場でこのことを藤枝と林田に告げればあるいはこの直後に起つた惨劇を防ぎ得
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