ん切迫した事なんだろうよ。しかし若い女の人たちはちよつとした事ですぐあわてるもんだから、話を詳しく聞かないうちは一緒に騒ぐわけにはいかぬよ。このあいだもひどく狼狽して女の人が飛び込んで来て、夫が行方不明になつたというのだ。だんだん調べて見ると、その夫というのが、ある待合でいつづけをしていたというわけさ。あははは」
「しかし、この手紙には自分の名がちやんと出ているね」
「うむ、これがちよつと面白い所だ。これが本名だとすればだね、君は気がついているかどうか知らないが、秋川という姓は、有りそうでいて殆どない姓だぜ。秋川といつて思い出す人があるかい」
 私はそう云われて、自分で暫く考えて見た。
 大阪で貿易商をやつていたころ、いろんな事業家を知つていたが東京の実業家で、そんな姓の人がいたのを思い出したのであつた。
「何とか会社の社長で、秋川という人がいたように思うが……」
「そうだよ、君は割に物をはつきりおぼえているね」
 藤枝は、妙な目つきで私をちよつと見た。
「この手紙がついてからすぐ、僕は紳士録だの興信録をあけて見たんだ。秋川駿三という実業家がある。秋川製紙会社の社長だ、無論外の会社にも関係しているが。そうしてその人の長女にひろ子という人がある事がちやんと出ているよ」
「え? じや秋川ひろ子というのは、その金持の娘かい」
「うん、そうだ、勿論これから僕を訪ねて来るお嬢さんが、その人と同じ人かどうかは未だ判らないが、ともかく秋川ひろ子という人が立派に存在している事はたしかだよ」
 こんな話をしているうちに、二人は藤枝の事務所の前にやつて来た。
「そのお客さんが来るまで、どうだい君、興信録でも見て、あらかじめ予備知識を得ておいては?」
 藤枝は室にはいつて、大きな机の前に腰かけると、側にちやんとおいてあつた大部《たいぶ》の本を私の前にさし出した。
 見ると、成程彼がすでにだいぶ調べたと見えて、アの字の部の所が開かれている。秋という頭字をひろつてゆくと、秋川という姓はたつた一つしかない。
 秋川駿三、なるほどこれだな。私はそう思いながらその項をじつと読みはじめたのである。
[#ここから1字下げ]
秋川駿三(四十五才)
 君は旧姓山田、二十三才のとき、当家先代長次郎氏に認められて、家女徳子(現在の夫人)の婿養子となり、秋川の姓を冒す、夙に製紙事業に身を投じ、成功して今日に至る
前へ 次へ
全283ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング