ところで大勢の人々が出て来る処に出会した。
 母親は、直に、ソレイランが嘘をついているなと思って、引かえして彼を詰問したが、不相変《あいかわらず》、同じ事を彼は主張した。
 それから彼はエルベルディング夫人と一緒に交番に行ってマルテの失踪について語ったがそこでも、バタクランで彼女を見失ったという事をしきりと主張した。
 その夜、彼はひどく心配な表情をして、あわてている母親をたすけて一生懸命にマルテの行方を探しまわった。
 けれども翌日になって彼は警察で取調べられる事になった。
 その前日の午後彼はどこで時をすごしたかをはっきり答えなければならなくなった。
 彼のついたつまらぬ嘘が、非常に重大な嫌疑をもたらしはじめた。そこで彼の身の上について俄《にわか》に厳重な捜査が開始された。
 其結果、彼は結婚以前に、或る売春婦と同棲していてその女に養われていた事実、及びその女の妹を虐待した事実が判明、更に、詐欺罪に依って八ヶ月の懲役に処せられた事があるのが明かにされた。
 そこで三月三日、確たる証拠は未だなかったのであるが、ソレイランに対して逮捕状が発せられた。之は従前の軽い犯罪に対してのものだったと信ぜられる。
 ところが、その結果彼は逮捕されると、
「ああ、とうとうマルテの件がばれたか」
 と自白同様の一言を発してしまった。
 一人の証人は、一月三十一日午後二時頃、彼の従来の申立によれば此の時彼はマルテとバタクランに行っていた筈なのだが、その時ソレイランが自分の室の窓の所に、マルテと一所に居た、という事を証言した。於是《ここにおいて》、彼に対する嫌疑はいよいよ深くなり、さんざん言いこまれた末、とうとう彼もまま真実に近い自白をはじめた。
 即ち、彼はあの日自分の所に一旦マルテをつれて行ったのだが妻がいなかった。マルテはソレイランの妻と一所でなくてはコンセールに行かないと頑張って泣き出したので、無意識に[#「無意識に」に傍点]咽喉を手で押えると、いつの間にかマルテの息は絶えていた、というのだ。
 そこで、布で死体を包み、電車で東停車場まで運び、そこの手荷物預りの所に之を荷物として託したのであった。
 此の自白を確実にする為に、当局は直に東停車場の荷物を取調べたが、はたしてそこには、マルテ・エルベルディングの死体を包んだ灰色の包みが発見された。
 二日の後に、解剖が行われたがその結果は惨忍さに於いて到底彼の自白の如きものではない事が明かになった。
 頸のまわりには絞められた痕跡があったが胸部に十一センチの深さの切創があり、心臓は突刺されていた。
 事実は、彼はまずマルテに暴行を加え、次に之を絞め殺し、後、胸を突刺したのであった。
 取調中、彼は夢中でやった犯行であると強硬に主張した。そうして暴行の点については全くおぼえがないという申立をやった。
 暴行事件がここではからずももう一つあかるみに持出されたのである。
 一九〇一年三月、彼は、ジェリヤ・ブルマールという二十二歳になる婦人を襲った事がある。
 彼はその日彼女を自分の室にさそいこみ、それから急に乱暴をはじめて女を虐待し、ついにブルマールを床の上に仆して口から出血させるに至った。そうして最後に、彼女を脅迫しながらおそるべき行為に出でようとしたのである。
 ブルマールは、従うと見せて、相手の隙を見てほんとうに危い所で身を以って僅かに逃れた。
 マルテに対するソレイランの行為も丁度この事件と同じような性質をもっている。
 彼はマルテをまずナイフでおどかし、沈黙をまもって彼の暴力に従う事をせまったのである。然るにマルテが泣き叫んだので彼はあわてて絞殺したわけである。
 一九〇七年七月二日。重罪裁判所で彼の公判が開かれた。
 被告席に着いた彼の姿は一言で云えば、獰猛《どうもう》な鷲《わし》のような印象を人々に与えた。
 凡て犯罪の証拠があるにも不拘《かかわらず》、彼は、犯行の事実を全くおぼえがないと否認した。即ち無意識行為であるという主張をやった。
 彼が犯行後如何に冷静であったかという一つの証拠として、彼がマルテの死体を運んだ電車の車掌の言葉をここに記すと、
「私は、この男を食肉市場の助手だと思ったのです。それでそこにもっているのは牛肉かいときいたもんです。しかし被告は何も答えませんでした」
 検事総長ツルアルリオールは、特に殺人の情況以外に間接の情況が甚だ被告にとって不利なる事を指摘した。実にソレイランは被害者とは十年も前から知合であったのに、人情も何もなくこんな惨虐な事をやったのである。
「かくの如き恐るべき犯人は未だかつて被告席にあらわれたる事なし」
 検事総長はこう結んだ。
 死刑の判決が言渡された。
 その瞬間であった。突如法廷の一角から、絹をさくような声がきこえた。
「人非人め、私
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