申し上げたのでございました。何でも之をお聴きになった時の御奉行様のお顔色は土のようだったと御役目の方から承りました。御奉行様は、ただ「たわけ者」と一言仰せられた切り、すっとその場を立っておしまいなされたそうでございます。
 御奉行様の明るいお顔が暗く陰気になりましたのはたしか其の日からでございました。其の日お帰りになりましても一言も口をお開きになりません。其の夜はとうとうお褥《しとね》の上にもお乗りにならなかったようでございました。其の翌日はお上へは所労と申し上げられて、とうとうお邸に引き籠っておいでになりました。そうしてお邸の中でも一室に閉じ籠ったきり、まるで物も仰言らないのでございます。
 私は自分の浅智恵から、御奉行様はあの煙草屋彦兵衛の為に一室にこもって供養をなさっていらっしゃるのだ位にしか考えませんでした。けれども今から考えますればそんな小さな事だけではなかったのでございます。
 私などが斯様申し上げますのは随分如何かと存ぜられますが、御奉行様はつまり御自身の御智恵をお疑りはじめになったのでございます。御自身のお裁きをお疑りになり始めたのでございます。一言で申せば、自信をお失いになったのでございます。
 今迄は御自分のお考えは何時も正しい、自分の才智は常に正しく動く、とお考えになって居たのに、今度はその土台がぐらぐらとしてまいったのでございます。
 斯うして、御奉行様は毎日毎日陰気にお暮しになるようになりました。出過ぎた事を申し上げるようでございますが、あの頃からのお裁きにはもうあの昔の才智の流れ出るような御裁断が見えませぬ。一歩一歩、それも辿るような足取りでお裁きをなすっていらっしゃったのではないかと存ぜられるのでございます。
 斯様な有様で此の先いつまでも参るのかと私は存じて居りました。而も一方、世間は御奉行様のお心の中などは少しも知らず(知らないのは尤もでございますが)御奉行様をもてはやし、御奉行様の御名声は益々上るばかりなのでございました。

          四

 所が、斯ういう暗い陰気なお顔色が、或る時期から急に再び明るく輝き出すようになッて参りました。それはいつ頃でございましたか、又|如何《どう》いう事からと申す事ははっきりおぼえませぬが、あくる年の春、或るお親しいお方とお話をなさッた後の事と存じて居ります。何でも其の時のお話の中に、先程申しました橋本さきという女と煙草屋彦兵衛という男の名が出ましたと見え御奉行様はお一人におなり遊ばしてから、頻《しき》りと其の名を繰り返しておいでになりましたが、急に晴やかなお顔色におなり遊ばして、お側の者をお召しになり不意に「世間は余を名奉行だと申して居るか」とおたずねになったのでございます。お側の者がその旨申し上げますと、晴やかなお顔色で更に「悪人だから処刑になるのか、処刑になるから悪人なのだか、判るか」と笑いながら仰せられたのでございました。
 そして其の日から再び御奉行様はもとのように大層明るく、御機嫌もよくおなり遊ばしたのでございます。ただ、何と申しましても以前のようなあの明るさ華やかさは最早見られませんでしたけれども。そうして矢張り折々は何となく暗い顔をなさるのでございました。
 何故斯う又お変り遊ばしたのでございましょうか。
 私今となッて考えまするに御奉行様は御自身のお裁きに疑をお懐きになるようになり、自信をお失い遊ばしましてから、きッと、長い間、苦しみと悩みの中をお迷いになったに相違ございませぬ。あれ程迄にお信じになり御頼りになッておいでになッた御自身でございます、これが思いがけない事実によッて裏切られましたのでございますもの。若し、あの儘に続いたなら、御奉行様はやがてそのお役目をお退《ひ》き遊ばしたに違いないのでございます。御奉行様がお役目をお退きにならず、而も晴やかに再び活き活きとお勤め始めになりましたのは何故でございましたでしょう。
 浅墓な私の一存と致しましては斯う考えたいのでございます。御奉行様は一時大変に信頼遊ばしていらしッた自分のお智恵に対して自信をお失いになッた。けれども何か之に代るべき何物かをはッきりとお掴みになッたのでございます。それは力と申すものでございます。と申してもそれは奉行様というお役目の力ではございませぬ。御奉行様のお裁きが、天下の人々に与えます一ツの信仰、御奉行様の盲目的な信仰という一ツの力をはッきりとお知りになッたのでございます。
 何故と申せ、御奉行様をお悩ませ申した事件は、一方の方では御奉行様のお智恵を裏切ッているようではございますが、一面では必ず御奉行様のお力をはッきりと示して居るではございませんか。
 橋本さきは何故死ななければならなかッたか。御奉行様がお負かしになったからでございます。御奉行様が「偽り者め」
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