と一言仰言ッたからでございます。「さき」が真の母親であッたか如何かはどうでもよい事なのでございます。天下の人々は御奉行様がお負かしになったから「さき」が嘘の母親だと信じるのでございます。煙草屋彦兵衛に致しましても左様ではございませんでしょうか。彦兵衛が罪人だからお処刑になったのだと申しますよりは、御奉行様が御処刑になさッたから悪人でもあり罪人でもある、と多くの人々は考えるのでございます。
 之は並々の奉行の出来る事ではございませぬ。あの御奉行様なればこそでございます。天下の人達が神様のように尊敬致し、名奉行、名裁判と申し上げているからこそ斯様なことになるのでございます。
 考えるのも恐ろしい事でございますが「橋本さき」「煙草屋彦兵衛」の外の、数多い事件に致しましても、幸か不幸か後に色々な事実が現われませぬからその儘になって居りますようなものの、凡てが天下の人々が信じて居ります通りの事実であったのだと、誰が申すことが出来るでございましょう。
 所詮は神様でない限り、人が人を裁く限り、いくら御奉行様でもお間違いがないとは申せますまい。出来ない事を執拗に探るよりは、天下の御法というものの有難さをはっきり知らせる方が世の為なのでございませんでしょうか。
 御奉行様に対する天下の信仰はそれで立派な一つの御治世の道具になるのでございます。
 なまじ事実を一つでも探り出して今更其の信仰を動かすよりは、いっその事ますます其の信仰を強くしてそれを以て世を治めて行こうとお考え遊ばしたのではございませんでしょうか。長い長い暗闇をお通りぬけになった御奉行様は、斯うやってようやく明るみにお出ましになったのだと、憚り乍ら私は考えますのでございます。
 つまり、御奉行様は智恵に就いての御自信をお失いになった代りに新に、御自分の力に就いてはっきりと御自信をお掴みになったのでございます。斯う考えますせいか、初めはただ御自分の御名声がもて囃されるのをただ笑って聞いていらっした御奉行様も、其の後は大層真面目に世評に気をくばっていらしったように存ぜられるのでございます。
 さて、斯うやって折角安住の地をお見出しになりました御奉行様は間もなく又もお悩みにならなければならなくなったのでございます。御奉行様のお智恵でも、お力でも如何ともする事の出来ないような一件が持ち上ったのでございました。それは申すまでもなく
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