や三時間でここで今しゃべり切れるものではない。発表し得るものでもない。しかも僕の生命は、今君の云ったように今にも終るかもしれないのだ。云いたいことをすっかり云い切らぬうちに死ぬかもしれない僕なのだ。だから僕はもはや長たらしい詠嘆をくり返すことをやめよう。要するに僕はまず第一に蓉子の心が僕から離れ行くのを感じ、しかもそれに対してどうすることもできない僕を見出したのだ……僕は蓉子の心を信じ切れなくなったのだ。……」
 大川はこういうと突然、起き上ろうとした。
 石のようになって聞いていた山本は驚いてこれを制した。
「大川、落ちついてくれ。俺ははっきりきいているんだから。」
 こういいながら傍の水さしをとって大川の口のところにもって行った。大川は二口ほど水をうまそうに呑んでまた語りつづけた。
「蓉子が僕を愛し切っていない、ということが判ってから、僕はどんなに苦しんだろう。その上仕事はだんだんできなくなって来る。ところで米倉はますます成功して行く。蓉子はしばしば僕と結婚したことを後悔しはじめたような様子さえ、見せはじめた。
 ところが、山本、僕はこの上更にみじめな目にあわなければならなかったのだ。僕が今まで云ったことはただ心の問題ばかりだった。人によっては呑気《のんき》にくらして行かれることだったのかもしれない。ところがどうだ。僕は結婚後一年程たってから蓉子に不思議な挙動のあるのを見出したんだ。」
「何? なんだって?」
「妻としてあるまじき振舞だ。けしからん挙動だ。」
「と云うと?」
「君にはまだ判らないのか。妻としてあるべからざる振舞だよ。……つまり、僕は蓉子を身体の方面でも完全に独占してはいないということを見出したんだ。」
「…………」
「君はまさかと思うだろう。驚いたろう。しかし事実なんだからね。蓉子はしばしば僕の留守に自分も出かけるようになりはじめた。たとえば、君に身体を診てもらうというようなことを云っては出かける。そうして君にあとできいてみると、またはその時君の家へ電話でもかけると、それは嘘だったということがすぐわかったんだ。……蓉子の奴、身体まであいつに任せたんだ。」
「あいつとは誰だ?」
「無論米倉三造さ。」
「奥さんがそんなことを云ったかい?」
「馬鹿! 君は蓉子を知らないのか。あいつそんなことを白状するやつか。あの女はね、通常以上の女だぜ。女房をほめるわけじゃないが、あいつは人間より何より芸術を愛する女なんだ。頭もいいし口もうまいんだ。訊《ただ》したところで白状なんかするやつじゃない。だから僕は一回だとてそんなはずかしい質問をしたことはないよ。」
「それじゃ奥さんがけしからんことをしたかどうか第一疑わしいじゃないか。」
「君は法律家のようなことを云う。それが怪しいと考え感じたくらいたしかなことはないじゃないか。しかも相手は米倉以外に誰が蓉子に愛される資格があるか。君、僕のいうことは無茶のようかもしれない。しかし、夫としての直観を信じたまえ、そうして僕が芸術家としての直観を。直観といっていけなければ本能を!」
「…………」
「明かに云えば僕は妻の挙動が怪しいことを感じた。しばしばいいかげんなことを云って家をあけることを知った。これで十分じゃないか。ある口実を構えて蓉子が出かける。調べてみると(卑劣なことだが僕は調べたよ)まったく嘘だ。これだけの事実は、検事には不十分かもしれない。しかしわれわれには妻の不貞を信ぜしめるに十分じゃないか。その上、平生の蓉子の口に現わせぬ態度等を考えれば文句はないんだ。しかも相手は蓉子が僕の前でさえときどき賞讃する米倉以外の誰であり得るんだ?」
「僕は夫になったこともなし、芸術家でもない故かもしれぬが君に急には賛成しにくいね。」
「けれど僕だとて、空想や邪推ばかりしていたわけではないんだ。ことに蓉子の身体に異状が来てからはかなり冷静に考えたのだ。
 君はおぼえているだろう。蓉子が妊娠したことを。君に診断して貰いに来る前に、僕が君を訪ねたことを。あの時、僕は君に、一体僕は子供を作り得るかどうかをきいたはずだ。かつてある種の病気を君に治療してもらった経験から、君にはその判断がつくと思ったのだ。妻が妊娠した時、それが果して自分の子かどうかを疑わねばならぬ夫ほど、不幸なものが世にあろうか。しかも僕はそれを疑ったのだ。だから君にはっきり聞いたのだ。ところが君は、
『できぬことはないだろう。』
 というような生《なま》ぬるい返事をした。恥かしい自分の立場をかくすためには、強《し》いてそれ以上きくことができなかったのだ。しかし僕はあの時の君の返事を否定と解釈している。だから妊娠した時、僕の疑いはまったく確実だったもののように思われたのだ。
 ああ、しかし、さっきも君に言われた通り、証拠のないのをどうしよう。君の答えもあいまいなものなのだ。僕の子かもしれないのだ。僕はこうやって妻が妊娠してから約二年あまり苦悶に苦悶を重ねてきたのだ。
 どうにかして証拠を捕えたい、こう念じたが、蓉子は完全に自分の行為をかくしていた。僕は更に君以外の医者に自分の身体を診て貰おうかとも考えた。しかし一方から思えば、久子が僕の子でないことが判ったからとてあとはどうなるんだ。蓉子を知っている僕は彼女が素直に自白するとは信じなかった。いやたとえ自白したところでどうするんだ?
 もし蓉子が米倉を愛していると自白したらどうなるのだ。久子が米倉の子だということが判ったからとて幸福になるのか。法律はもちろんある結果をつけてくれるだろう。けれど、法律がどう解決をつけようがこの深刻な問題が少しでもよくなるのか。山本。妻を奪われた夫は一体どうすればいいんだ!」
「…………」
「誰でも考えるだろうが一番はじめ僕の頭に浮んだことは妻と男をいかなる手段ででもやっつけることだ。けれど僕は米倉と自分とを比べてみた。もしなんらかの方法で米倉をやっつけるとすれば、世間はどう思うだろう。何も知らぬ世間は彼の盛名に対する僕の嫉妬だとしか考えぬであろう。そう思われることは堪えられないのだ。それに、実に矛盾した考えだが、直観は直観としても、僕はどうにでもして米倉が姦夫《かんぷ》であるという確信と証拠を得たい気がしていたのだ。僕は苦悶した。蓉子にも米倉にも何も云わず一人で苦しんだんだ。結局救われる道は一つしかない。芸術に精進することだ。そうして米倉の盛名を一撃に蹴落してくれることだ。そうすれば米倉に対して立派に復讐もできるし、蓉子もまたふたたび僕のものになるに違いない。
 こう決心して僕は終日ペンをとった。しかしもう駄目だ。僕はだめだ。何もできぬ、何も書けない。僕はふたたび絶望の淵に沈んだ。こうやってとうとう昨年の夏まできてしまったのだ。」
「そうか、そんな事情があったのか。僕は少しも知らなかった。」山本はこう云ったが、それはまるで作りつけの人形が、機械で物を云っているような、きわめて洞《うつ》ろな調子であった。
「僕の家庭はほとんど家庭をなしていなかった。僕と妻とはおたがいに終日物を云わないでいる日の方が多くなってきた。もういてもたってもいられないという時になった。蓉子もいよいよ僕を見捨てる決心をしたらしい。蓉子は夫として、芸術家としての僕にとうとう愛想をつかしてしまったのだ。
 たしか昨年の九月の十日頃だったと思う、蓉子が不意に僕と別々に生活してみようと云い出した。もう一度舞台に立ちたい、というのが表面の口実なのだ。僕はおとなしくそれをきいていた。そうして何も答えずにおいた。翌日になると蓉子は、もうその問題を出さなかった。だから表向きはきわめて平和にその時は過ぎてしまった。が、僕の心の中は嵐のようだった。
 蓉子が同じ問題をふたたびまじめに提出したのは、昨年の十月十九日、すなわちあの事件のちょうど前夜なんだ。蓉子はその時、自分のことをはっきり僕に云った。僕は確信を……」
「何? はっきり云った?」
「うん、十九日の夕食過ぎだ。蓉子がまた、改まって、僕に別居問題をもち出したんだ。もう堪えられなかった。僕はこうきいてやった。
『お前が俺と別れようというには、他に理由があるんだろう。たいてい俺も察している。はっきり云ってくれないか。』
 すると蓉子はこう云うのだ。
『あると云えばあることはあるんです。けれど、そんなことおききになったって仕方がありませんわ。』
 僕はこれをきいてかっとなった。
『馬鹿! 俺を盲目《めくら》だと思ってやがる。一体久子は誰の子だ!』
『何を云ってらっしゃるんです。』
 蓉子はこういうと黙ってしまった。山本。これがほんとに僕の子ならすぐ答えるはずじゃないか。蓉子が何も云わないのは、いや、云えないのは、久子が僕の子でないという証拠じゃないか。」
「それからどうなったね。」
「僕はあまり不愉快だったから、黙って自分の部屋に戻ったんだ。そうして割れるように痛む頭を押えて、机に向って、どうかして心を落つけようと努力した。
 そのうち蓉子も黙って床を敷いていた、僕は夜、側《そば》に人がいては仕事ができないので、妻子の隣室でねることにしてある。それで自分も蓉子に床をとらせて黙ったまま床に入ったのだ。それがちょうど十九日の十時頃だったろう。
 さすがに蓉子もすぐはねつけなかったらしい。僕はしばらく床にはいっていたが、とうていそのまま眠れぬので、また机に向っていろいろ考えにふけったが、結局、蓉子を殺そう、という決心しかもち得なかった。
 そうだ、この苦悶から逃れる方法は、ただ蓉子を殺すより他にはない。そうして自分も死ぬことだ、とこう思って僕は、ただそればかりを考えて、押入れからかつて僕が外国にいた友から贈られたピストルを取り出して、弾丸《たま》を調べはじめたのだ。
 山本、君は人を殺すということがいかに難しいことか、少しでも考えてみたことがあるか。あらかじめ計って人殺しをするということは悪魔でない限りできるものではない。僕はあの夜あれだけの決心を堅め――おまけにその決心までくるのに二年余もかかったんだが、その深みある決心にもかかわらず、僕がピストルを手にとった時、すでにその決心がにぶりはじめたのだ。
 今でなくてもいい。あしただっていい。こう考えて僕はピストルをおいた。そうしてしばらく悶《もだ》えたが、やはりピストルを手にとることができず、それを枕元においたまま床に入ってしまったんだ。
 非常に亢奮した後には非常な疲労がくる。夜半の一時頃に僕はすっかり疲れ切って眠入《ねい》ってしまった。どのくらい眠入ったかおぼえはないが、不意にささやきのような声がきこえる。なかば起き上った時、隣室から明かに男の声がきこえた。
 僕は全身の血が一時に燃え上るように感じて、いきなり枕元のピストルをとると、できるだけひそかに襖《ふすま》の端をあけてみた。
 いくらあわてていたとは云え、蓉子がどんな女であろうと、夫のねている隣室に男を入れるはずのあるものでないくらいのことは、すぐに考え浮ぶべきなのだが、実際その時の僕は怒りに燃えていたのだった。
 しかし、さすがに、襖を開けて隣室をのぞいたとたん、僕はあっと危く叫ぶところであった。
 蓉子の枕元にはスタンドがおいてあって彼女がねつく時一燭光にしておく習慣だったので、その光でおぼろに不思議な光景が目に入ったのだ。なかばねぼけたような蓉子が、半身を床の上に出そうとしている。その夜具の上に半分覆面した大男が出刃庖丁をつき出しながら、小さい声で何か云っているのだ。
 僕はすぐ強盗だなと感じた。いくら僕でも毎日の新聞で近頃の物騒さはよく知っている。すぐに飛び込んでやろうと身構えした時、男が不意に右手の出刃庖丁をつき出すと同時に『静かにしろ。早く金を出せ。』
 というのが聞えた。それに対する蓉子の態度を、僕は実に不思議なように感じたのだ。あんなに平生しっかりしていて、どんなことをも恐れない蓉子が、まるで気を失ったように恐怖の色を現わしているのだ。僕がどんなことをしたって、たとえ彼女を殺しにかかったところで彼女は敢然と首を伸したであ
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