虎《あざとら》こと大米虎市《おおごめとらいち》と称する脱獄者であることが明かとなった。惨劇の顛末《てんまつ》は判検事出張取調べの結果大体次のごとく報ぜられている。
大川竜太郎(三二)は妻蓉子(二六)長女久子(三歳)の三人家族で同家には他に佐藤定子とよぶ女中がいるのだが惨劇当夜より約一週間程前から父親が病気なので一時暇をとっていたため昨今はまったくの親子水入らずの三人暮しである。一時頃大川氏はおそくまで書きものをして、八畳の間に妻蓉子が久子とさきに就寝し、大川氏はその隣室の書斎六畳の間に就寝した。大川氏は近来ほとんど夜間に仕事をするため別室にねることになっていたのである。氏はあまりねつきのいい方でないので眠りに陥《お》ちたのは二時頃だろうということであった。兇漢が忍び入ったのは調べによると、台所で賊は戸をこじ開けて忍び入ったもので、最初台所の次の間を物色したが何物もないのでただちに蓉子の室に侵入し初めはひそかに枕元を探していたものらしく箪笥《たんす》の抽斗《ひきだ》しなどが開け放しになっていた。しかるにその物音に蓉子は目をさまして誰何《すいか》したので、賊は俄然《がぜん》居直りとなり手にせる出刃庖丁を蓉子の前に突きつけておどかした。もし蓉子がこれで黙っていたならば、あるいはあの惨劇は行われなかったかもしれないが、蓉子は驚愕の極悲鳴をあげて救いを求めた。襖《ふすま》一つ隔てた隣室に眠っていた大川氏はこの声に目をさましいきなり枕元においてあったピストルを携えて隣室に躍《おど》りこんだのである。賊は蓉子の声におどろいていきなり覆面用の黒布をとって蓉子の口へ押しこみ、同人を押し仆《たお》し両腕に力をこめてその咽喉《のど》をしめつけたため同人はもがきながら悶死した。曲者が蓉子の上にのりかかって同人を絞め殺すと同時に大川氏が救いにかけつけこの態《てい》を見るより一発を賊の右側から撃ち、ひるむところを更に一発その頭部に命中せしめたのであった。しかしながら実に一瞬の差で蓉子の生命を救うことができなかったので、大川氏は悲痛のあまり、大声をあげながら外にとび出したのであった。
なお取調の結果、兇漢大米虎市の持っていた出刃庖丁は二日前、府下××町××番地金物商大野利吉方で兇漢自身が求めたもので同金物店の雇人《やといにん》某は、大米の顔を比較的よく覚えていたためまったく同人の買ったものなることが明かとなった。大川氏はこの悲劇のため一時まったく昏倒《こんとう》したくらいで、ほとんど気抜けの態であるが、係員の質問に対しては割合明かに答えている。大川氏は一応××署の取調を受けたが正当防衛として不問に付することとなるらしい。兇漢の所持品としては出刃庖丁の他金三円二十三銭の現金、懐中電燈、ろうそく、覆面用の黒布等であった。右について司法某大官は語る。「自分は今度の大川竜太郎氏の強盗殺人事件について詳しいことをきいておらぬから何ともはっきり申せないが、きくところのごとくんば大川氏の行為は正当防衛でありかつ正当防衛の程度を超えざるものと思われるから問題にはなるまい。すなわち強盗でも何人でも深夜他人の家に忍びこんだ者が妻を殺さんとしている場合は明かに刑法第三十六条のいわゆる急迫不正の侵害であるし、これに向って発砲することはすなわち、『已《や》ムコトヲ得ザルニ出《い》デタル行為』と認めてよろしかろうと思う。ただもし兇漢がすでに妻を殺してしまったあとで発砲したりとせば、妻に対する正当防衛は成立しないわけであるが、大川氏のごとき場合は妻を殺してもなお自己に対する急迫不正の侵害があるわけ故《ゆえ》やはり第三十六条の適用を受けるべく、たとえそれがために相手を殺したりとするもこの際は『防衛ノ程度ヲ超エタル行為』とは云えないであろう。ただ聞くところによれば、大川氏の携えていたピストルはなんらの許可を得ずしてもっていたものとのことであるから銃砲火薬類取締規則に触れることは別問題である」
参照 刑法第三十六条――急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得ザルニ出デタル行為ハコレヲ罰セズ。防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因リソノ刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得。
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 大川氏の行為はその後もちろん正当防衛として問題にならなかったが、この事件が大川竜太郎氏に与えたショックは実に非常なものであった。彼はこの事件以来ほとんど喪神の態で数ヶ月を過して来た。あれほどまでに愛しあった夫婦である。しかもかくのごとき惨劇のショックは普通のものに対しても容易なものではない。まして大川のごとき、繊細なる神経の所有者である芸術家の場合に、このショックがほとんど致命的のものであることは誰しも疑うことはできまい。
 あの惨劇以来、大川竜太郎氏は、遺《のこ》された一人の娘を妻の里にあずけ、家をたたんで、全然一人となって、この病院に程近きアパートメントに入ったのであった。
 さなきだに作品を産出できなかった天才大川は、仇敵《かたき》米倉三造の盛名日に日にあがるのを見つつ、こうやって惨劇以来の半年を送って来たのであった。
 この惨劇が大川竜太郎のこのたびの劇薬自殺事件に関係なしと誰が云えよう。

 さて話はふたたび黄昏の病室に戻る。
 室はおいおいと暗くなってゆく。
 墓場のような静寂は突如大川によって、ふたたび破られた。
「山本、山本……」
「何だ、大川、え?」救われたように山本が答えた。
「君一人か、この部屋は。」
「ああ、今云った通りだ、誰もいない。」
「山本、君は永い間僕の親友でもあり、また医者でもあってくれた。僕あ、深く感謝するよ。」
「…………」
「それでね、僕は今、僕の医者としての君と、親友としての君にききたいことがあるんだが……君、はっきり云ってくれるだろうね。」
「どういう意味だい、それは。」
「つまり僕は一生を賭けた問を君に二つ出したいんだ。その一つには医者としてはっきり答えて貰いたい。それからも一つのには親友としてはっきり答えて貰いたいんだ。」
「うん、できるだけそうするようにしよう。なんでも云って見給え。」
 横たわれる大川の顔色には、犯し難き厳粛な色が現れていた。佇《たたず》める山本の額《ひたい》には汗が浮き出している。彼は大川がどんな問を発するか、片唾《かたず》をのんで待ち構えた。
「医者として答えてくれ給え。僕は助かりはしないだろうね。とても。もう今にも死ぬかもしれないんじゃないか?」
「…………」
「いや、僕の聞き方が悪かったかもしれない。医者なるが故に、君はそれに答えられぬのかもしれない。それなら親友として云ってくれないか。僕はとても助からないんだろう?」
「ああ、決して安心してはいけない状態なんだ。いつ危険が来るかもわからない場合なんだ。しかし、こんな状態で回復した例はいくらでもある。だから絶望とは云えない。」
「ありがとう。けれど君は誤解している。僕は生きようと望んではいないんだ。死ぬなんてことは案外楽なものだぞ。生きよう生きようと努力するからこそ、回復する場合もあるだろう。しかし僕は生きようとは思っていない。だから回復することはない。もう一度ききたい。もし僕が遺言をするとすれば、今するのが適当だろうか。もっと延ばしておいていいだろうか。」
「そうだね、それは君の勝手だ。しかし、するなら今しても差支えないね。」山本は額の汗を拭《ぬぐ》いながら答えた。
「ありがとう。君の云うことは決定的だ、僕にははっきり判る。僕は自殺を仕損じてから今まで、遺言を君にきかせたいために、きいて貰いたいために生きていたのだ。そうして君からききたいことがあるために生きていたんだ。」
「よし、聞こう。云い給え。しかし疲れないように話し給え。君の生命は、それを云い終らぬうちになくなるかもしれない場合なのだ。」
 大川が今度は黙った。
 沈黙がしばらくつづく。部屋はもう闇になりかかっているのに、山本は電気のスイッチをひねるのを忘れていた。
「君は、僕がなぜ自殺をしようと計ったか、そのほんとうのわけを知っているか。……僕はこの数ヶ月、毎晩死んだ妻の亡霊に悩まされつづけていたんだ。」
「あんなに愛しあっていたんだからなあ……」
「いや、そういう意味ではない。殺された妻の死霊に呪《のろ》われつづけたのだ。」
「どうして?」
「どうして? では君もやはり、世間と同じことを信じているのか。山本。僕は何度妻を殺そうと思ったかしれないんだ。そうしてあの恐ろしい夜のあのできごとは、たとえ僕が自分で手を下したのではないと云え、僕に十分の責任があるんだ。山本、僕は強盗に妻を殺さしたのだよ。僕は僕の妻が強盗に殺されるまで、黙って見ていたんだよ……」
「大川、俺には君の云うことが信じられない……」
「だろう。そうだろう。しかしほんとなんだ。僕はすべてに敗れたんだ。仕事の上でも、恋愛の上でも! 僕は君が今なお独身でいることを祝福する。僕は結婚というものがあんな恐ろしいものとは、想像もしていなかった。僕と蓉子とは結婚した。だから僕は敗れたんだ。もしあの時、米倉と蓉子と結婚していてみろ。恐らくは僕が勝ったに違いないんだ。
 僕は初め勝ったと思った。少くも恋の上では! 勝って蓉子を完全に得たと信じた。そう信じて半年程幸福に暮した。しかしその幸福は六ヶ月程経った時、永久に失われてしまったのだ。僕は蓉子を完全に得ているかどうかということを疑いはじめた。そう思った時、すでに僕は幸福というものはなくなってしまったんだ。蓉子も初めは僕を愛した。しかし、はたして蓉子は人間としての僕を愛していたのだろうか。
 米倉の盛名が輝くにつれ、蓉子の瞳も輝きはじめた。僕は妻を疑いはじめた。蓉子がいつまでも僕を愛しきって行かれるかを。
 結婚! 人は結婚を愛の墓場だとか恋の墳墓だとかいう。そう思っていられる人々は何と幸福だろう。結婚は平和な墓場ではない。静かな休息所ではない。結婚は恐ろしき呪いだ。
 これは僕の生れつきの生活から来ているのか、あるいは僕が、米倉という恋の競争者をもっていて、それに一度打勝って妻を得たという、そういう特殊な場合だったからかもしれない。が、いずれにせよ、僕は結婚したことによって、ますます心の不安を感じなければならなかったのだ。
 結婚すれば蓉子を完全に得られる――彼女の身体もそうして心も、全部を! こう考えていた僕はなんという馬鹿者だったろう。僕ははじめこそ、それを二つながら得たと思った。しかし、結婚して自分の妻としての蓉子をはっきり眺めた時、僕はいかにして完全に永久に愛しあって行かれるかと思い始めたのだ。
 僕は自分の手に入れた妻が、果して永く僕の手の中にいるかどうかを疑いはじめたのだ。
 僕は多くの夫を知っている。彼等が幸福そうに妻とならんで歩いているのをしばしば見かける。僕は彼等のように暢気《のんき》に生れて来なかったことを憾《うら》みに思っている。彼等は皆自分の妻を独占していることによって、その身体を独占していることによって、慰められている。妻の気持には少しも考慮を払うことなしに!
 彼等の妻のある者は常に不平を抱いているだろう。ある者は諦めているだろう。幾人がほんとうに夫を愛し切っているだろう。僕の場合にはそれは考えてもたまらないことなのだ。僕は妻の身体を独占していると同時に、妻から愛し切っていられなければ一日でも安心して生きてはいられないのだ。こういう僕にとって、結婚ということは何と呪わしいことであったろう。
 結婚の当初、蓉子は僕を尊敬しかつ愛した。それはたしかだった。しかし愛に眩《くら》まされた僕は芸術の精進を怠った。僕はそれは感じていた。けれど僕は自分の仕事の全部を失っても蓉子に永久に愛され切っていたら、それでいいとすら考えた。
 この考えこそ、いかなる意味からでも呪われてあれ! 僕の仕事が衰えると同時に蓉子の僕に対する信頼と愛とが衰えはじめたのを僕ははっきりと感じはじめたのだ。蓉子は、はたして僕を、人間としての僕を愛していたのだろうか。
 その頃の僕の苦悩は二時間
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