とならしめたのは、こうした二人の名誉心ではなかったのである。実に彼等は、ある一人の女を、しかもほとんど同時に愛し始めたのであった。
 この恋愛闘争はかなり有名な事件として知られている。女は酒井|蓉子《ようこ》という、ある劇団の女優であった。大川のある作品が、この劇団によって脚光を浴びた時、彼は蓉子と相識った。しかし同じ頃、米倉もまた蓉子と知りあった。かくて蓉子を中心として二人の男は恋を争ったのであった。
 この闘争において、まったき勝利はまさに大川の上にあった。大川と蓉子とは彼が二十九、彼女が二十三の年に円満な家庭を作るに至った。蓉子は未練げもなく舞台を捨ててよき妻となり二人の間には愛らしき子さえ儲けらるるに至ったのである。
 自分の敗北を認めた時、米倉は死ぬかとすら思われた。しかし彼は奮起した。奮起して彼はいっそうその芸術に精進して、ついには大川を凌《しの》ぐ盛名を博するに至ったのである。
 大川はいまや恋の勝利者ではあるが、芸術上の敗北者であった。と少くも世人には思われた。男子は、ことに大川のような男は、恋のみに生き得るものではない。
 昨年一杯彼の沈黙は果して何を示しているか。彼
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