とが明かとなった。大川氏はこの悲劇のため一時まったく昏倒《こんとう》したくらいで、ほとんど気抜けの態であるが、係員の質問に対しては割合明かに答えている。大川氏は一応××署の取調を受けたが正当防衛として不問に付することとなるらしい。兇漢の所持品としては出刃庖丁の他金三円二十三銭の現金、懐中電燈、ろうそく、覆面用の黒布等であった。右について司法某大官は語る。「自分は今度の大川竜太郎氏の強盗殺人事件について詳しいことをきいておらぬから何ともはっきり申せないが、きくところのごとくんば大川氏の行為は正当防衛でありかつ正当防衛の程度を超えざるものと思われるから問題にはなるまい。すなわち強盗でも何人でも深夜他人の家に忍びこんだ者が妻を殺さんとしている場合は明かに刑法第三十六条のいわゆる急迫不正の侵害であるし、これに向って発砲することはすなわち、『已《や》ムコトヲ得ザルニ出《い》デタル行為』と認めてよろしかろうと思う。ただもし兇漢がすでに妻を殺してしまったあとで発砲したりとせば、妻に対する正当防衛は成立しないわけであるが、大川氏のごとき場合は妻を殺してもなお自己に対する急迫不正の侵害があるわけ故《ゆえ》やはり第三十六条の適用を受けるべく、たとえそれがために相手を殺したりとするもこの際は『防衛ノ程度ヲ超エタル行為』とは云えないであろう。ただ聞くところによれば、大川氏の携えていたピストルはなんらの許可を得ずしてもっていたものとのことであるから銃砲火薬類取締規則に触れることは別問題である」
参照 刑法第三十六条――急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得ザルニ出デタル行為ハコレヲ罰セズ。防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因リソノ刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得。
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大川氏の行為はその後もちろん正当防衛として問題にならなかったが、この事件が大川竜太郎氏に与えたショックは実に非常なものであった。彼はこの事件以来ほとんど喪神の態で数ヶ月を過して来た。あれほどまでに愛しあった夫婦である。しかもかくのごとき惨劇のショックは普通のものに対しても容易なものではない。まして大川のごとき、繊細なる神経の所有者である芸術家の場合に、このショックがほとんど致命的のものであることは誰しも疑うことはできまい。
あの惨劇以来、大川竜太郎氏は、遺《のこ》された一人の娘を妻の里にあずけ、家をたたんで、全然一人となって、この病院に程近きアパートメントに入ったのであった。
さなきだに作品を産出できなかった天才大川は、仇敵《かたき》米倉三造の盛名日に日にあがるのを見つつ、こうやって惨劇以来の半年を送って来たのであった。
この惨劇が大川竜太郎のこのたびの劇薬自殺事件に関係なしと誰が云えよう。
さて話はふたたび黄昏の病室に戻る。
室はおいおいと暗くなってゆく。
墓場のような静寂は突如大川によって、ふたたび破られた。
「山本、山本……」
「何だ、大川、え?」救われたように山本が答えた。
「君一人か、この部屋は。」
「ああ、今云った通りだ、誰もいない。」
「山本、君は永い間僕の親友でもあり、また医者でもあってくれた。僕あ、深く感謝するよ。」
「…………」
「それでね、僕は今、僕の医者としての君と、親友としての君にききたいことがあるんだが……君、はっきり云ってくれるだろうね。」
「どういう意味だい、それは。」
「つまり僕は一生を賭けた問を君に二つ出したいんだ。その一つには医者としてはっきり答えて貰いたい。それからも一つのには親友としてはっきり答えて貰いたいんだ。」
「うん、できるだけそうするようにしよう。なんでも云って見給え。」
横たわれる大川の顔色には、犯し難き厳粛な色が現れていた。佇《たたず》める山本の額《ひたい》には汗が浮き出している。彼は大川がどんな問を発するか、片唾《かたず》をのんで待ち構えた。
「医者として答えてくれ給え。僕は助かりはしないだろうね。とても。もう今にも死ぬかもしれないんじゃないか?」
「…………」
「いや、僕の聞き方が悪かったかもしれない。医者なるが故に、君はそれに答えられぬのかもしれない。それなら親友として云ってくれないか。僕はとても助からないんだろう?」
「ああ、決して安心してはいけない状態なんだ。いつ危険が来るかもわからない場合なんだ。しかし、こんな状態で回復した例はいくらでもある。だから絶望とは云えない。」
「ありがとう。けれど君は誤解している。僕は生きようと望んではいないんだ。死ぬなんてことは案外楽なものだぞ。生きよう生きようと努力するからこそ、回復する場合もあるだろう。しかし僕は生きようとは思っていない。だから回復することはない。もう一度ききたい。もし僕が遺言をするとすれば、今するのが適当だろう
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