とならしめたのは、こうした二人の名誉心ではなかったのである。実に彼等は、ある一人の女を、しかもほとんど同時に愛し始めたのであった。
この恋愛闘争はかなり有名な事件として知られている。女は酒井|蓉子《ようこ》という、ある劇団の女優であった。大川のある作品が、この劇団によって脚光を浴びた時、彼は蓉子と相識った。しかし同じ頃、米倉もまた蓉子と知りあった。かくて蓉子を中心として二人の男は恋を争ったのであった。
この闘争において、まったき勝利はまさに大川の上にあった。大川と蓉子とは彼が二十九、彼女が二十三の年に円満な家庭を作るに至った。蓉子は未練げもなく舞台を捨ててよき妻となり二人の間には愛らしき子さえ儲けらるるに至ったのである。
自分の敗北を認めた時、米倉は死ぬかとすら思われた。しかし彼は奮起した。奮起して彼はいっそうその芸術に精進して、ついには大川を凌《しの》ぐ盛名を博するに至ったのである。
大川はいまや恋の勝利者ではあるが、芸術上の敗北者であった。と少くも世人には思われた。男子は、ことに大川のような男は、恋のみに生き得るものではない。
昨年一杯彼の沈黙は果して何を示しているか。彼はついに力つきたのか。あるいはまさに再起せんとして一時の沈黙を忍んでいるのか。世人は深き興味をもってこれを眺めていたのである。かかる事情のもとに起った大川竜太郎の自殺事件である。文壇のある人々がこの点に彼の自殺の原因を見出したのも、決して無理とはいえなかった。
けれども、これだけが唯一の原因だとも見られぬ事情があった。さきに述べた大川の家における惨劇を原因として――少くも原因の一つとして見逃すことは、正しくはあるまい。
昨年の十月二十日の諸新聞の夕刊はこぞって大々的にその事件を報じている。そのうちの一つを次に掲げてみよう。
[#ここから3字下げ]
○強盗今暁大川竜太郎氏方を襲う[#「○強盗今暁大川竜太郎氏方を襲う」は2段階大きな文字]
――妻酒井蓉子(元女優)を惨殺して[#「妻酒井蓉子(元女優)を惨殺して」は1段階大きな文字]
自分も大川氏に射殺さる[#「自分も大川氏に射殺さる」は1段階大きな文字]――
[#ここから1字下げ]
近来ほとんど連夜のごとく強盗出没し、今や警視庁の存在をさえ疑わるるに至ったが、今暁またまた一人の強盗戯曲家大川竜太郎氏方に押入り妻蓉子(かつて酒井蓉子
前へ
次へ
全22ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング