明瞭《あきらか》に現われはじめた。その年の末に発表されたある戯曲は、作者のこの芸術上の苦悶をはっきりと示していた。彼はあせった。迷った。彼の行くべき途《みち》いずれにありや、大川竜太郎は三十一にしてこの苦悶に直面した。
世間はようやく大川の疲労を見てとったのである。しかし彼は怠けていたのではない。彼には怠けることは出来なかったはずだ。けれども、あせればあせる程、彼は自分の無力を感じた。三十二の年をこうやって彼は暮した。一つの作をも発表しないで、否《いな》発表し得ないで。
なぜ彼がかくもあせったか。
大川には有力な競争者が現われたのである。米倉《よねくら》三造の出現がそれであった。
米倉は大川とほとんど同年であった。はじめ大川の盛名に眩惑《げんわく》されていた文壇は、米倉の戯曲をさほどには買わなかった。けれども米倉は隠忍した。我慢した。そうして大川がその絶頂に達したと思われた頃、彼はがぜん奮起した。大川が疲労を見せ始めた頃、米倉は堂々と躍進し始めた。そうして大川があせりにあせってもがきはじめた頃、米倉は完全に文壇の一角を占領した。
世間はうつり気である。
大川の名は忘れられはしなかったけれど、彼の戯曲はこの頃ではただ発表されるにしか過ぎなくなった。しかるに米倉の諸作は、出づるごとに次から次へと脚光を浴びて行った。そうして、大川にとって最も痛ましかったことは、最初彼を文壇に送り出したある大家が、米倉三造を、大川以上のものとして折紙をつけたことであった。
もしこの事実が、大川の元気一杯の時に起ったとしたなら、決して彼は驚かなかったであろう。しかし、ある限りの精力を出し切ってしまった彼が、いま目の前に米倉の異常な、大川のそれにもました出世ぶりを見ていなければならぬということは、たしかに痛ましいことだったにちがいない。
というわけは、大川竜太郎と米倉三造とは恐らく永久に手を握りあうことのできぬ仇敵《かたき》同士であったからである。
彼等はその処女作を世に出す前において、すでに、競争者であった。おたがいに非常に神経質で頑固で、そうして嫉妬心を十分にもちあっていた彼等は、名をなす前に、心から愛しあうよりはむしろ、心から憎みあっていた。
「いまにみろ。」
という考えをおたがいにもっていた。そうしてその気持の上に二人は精進した。
けれども、この二人を決定的に仇敵
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