唐辛《たうがらし》
石を投げたら二つに割れた
石は磧《かはら》で
光つてる
安《やす》が嬶《かかあ》の連ツ子は
しよなりしよなりと
もう光る
生姜畑の闇の晩
背戸へ出て来て
光つてる
[#1字下げ]酒場の前[#「酒場の前」は大見出し]
特殊部落の――若い娘のお喜乃《きの》
少《ちつ》とも人ずれしないほんたうに美《い》い綺縹のお喜乃
先刻《さつき》からぼんやり、酒場の前に立つてゐる
お喜乃よ
もう晩方だ、家《うち》へ帰つたら良《い》いではないか
酒場の暖簾《のれん》から年配の男が首を出して云つた
アイ、帰るよ、だがな伯父さん
権さん今日は来なかつたか
年配の男は権と同じ工場の古参《ふるひ》職工だ
黄昏《たそがれ》の風に吹かれて職工の群は帰つてゆく。
権か、来ない、来ない
ありやあなア、お喜乃よ、権はもう大坂[#「大坂」に「(ママ)」の注記]へ帰るんぢや
知らん、知らん、そなことない
伯父さん、お前嘘だらう
お喜乃は暖簾の傍へ寄つて来た
おぬしに、嘘云つてどうする
お喜乃よ、権はなア、工場から暇が出たんだ
お喜乃はすり寄つて年配の男の顔を見凝《みつ》めた
伯父さん、そりやアほんたうか
年配の男は黙つてお喜乃の顔を見てゐる。
酒場の中からどんたりどんたり話声が聞えて来る
空樽《たる》に腰を掛けて冷酒《ひや》をあふつてゐた
目の苦茶苦茶した浅黄服を着た男が
微酔《ほろゑひ》機嫌で酒場の中から出て来た
オ、お喜乃か、ウム、美い綺縹だな
オイ兄え(年配の男に)己《おら》ア一足先き帰《けへ》るよ
千鳥足で行つて了つた
ホ、権が来だ!
年配の男は、向ふを見ながらお喜乃に顋《あご》でしやくつた
権はひよつこり酒場の前にやつて来た
お喜乃は駈け寄つて権の手を握つた
権さん
お前どうした、工場から暇が出たのか
お喜乃は悲しさうに権の顔を眺めてゐる
権もお喜乃の顔を眺めてゐる
お喜乃の目からはらはらと涙が零《こぼ》れた
権さん、工場やめてどうする
嘘だ、嘘だ
お前大坂へ帰へつちやンだらう
お喜乃はほろほろ声になつてゐる
夕焼の空は一面に赤く燃え立つてゐた
権は何んにも云はずに下を向いて立つてゐる
権さん、お前、大坂へ帰るなら
わたしも、一所に連れてつてお呉れな
又してもお喜乃の声は顫えてゐる
お喜乃は夕方になると赤い花|簪《かんざし》をさして、酒場の前に立つてゐたが
権はそれつきり遂ひぞ酒場に来なかつた
[#1字下げ]忠義の犬[#「忠義の犬」は大見出し]
日比谷公園の
広ツ場に
編みあげの赤い靴を穿き
祖母《おばあ》さんに連れられて
美晴子《みはるこ》さんが遊んでる
浅い弱い春の日は
鏡のやうに晴れてゐた
中学生が五六人
テニスネツトを引つ張つて
組に分れて遊んでる
軽くボールはぽんぽんと
向ふにこつちに飛んでゐた
祖母さんは、遠くの方へ退《ひ》つ去つて
腰をかがめて見せてゐる
テニスコートの
向ふから
足の太い、毛の長い
強さうな
犬がさつさと歩《や》つて来た
美晴子さんは、活動の『忠義の犬』を思ひ出し
丸い目をして見て居つた
あの犬も忠義の犬になるか知ら
同じやうに耳も垂れてゐるし
口も大きいし――
美晴子さんは
目をはなさずに眺めてゐる
中学生のラケツトが何《ど》んな途端《はづみ》かぐんと来て
犬の後《うしろ》に落つこちた
犬は走つてラケツトを
口に銜《くは》へて立つてゐる
美晴子さんは
小さな声で祖母さんに
『忠義の犬』の話をした
[#1字下げ]小さな出来事[#「小さな出来事」は大見出し]
足の短い狛犬《こまいぬ》はポチに噛ませてやりませう
糸のたるんだ風船と空気のぬけた護謨毬《ごむまり》はタマに噛ませてやりませう
弾機《ばね》の廻らぬ自働車[#「自働車」に「(ママ)」の注記]は銑葉《ぶりき》の台へ載せたまま馬車に轣かせてやりませう
翼《はね》のゆがんだ木兎《みみづく》は牛に踏ませてやりませうか、馬に踏ませてやりませうか、うしろの沼へ捨てませうか
飛べなくなつた飛行機と共に窓から投げませう
硝子《がらす》の中の人形も明日《あす》はお暇《いとま》やりませう
何《ど》つかの島へ着くやうに
島の人形になるやうに
桐の小函に帆をかけて――大川の水に流してやりませう
[#1字下げ]蝙蝠[#「蝙蝠」は大見出し]
蝙蝠《かうもり》よ、蝙蝠よ
井戸端に蚊柱が立つてゐる
早く来て喰はないか
蝙蝠の家は何処だ
山か里か
何故|咄《はな》さぬ
蚊柱が立たば
迎ひに行くぞ
すぐに来て喰へよ
呼んでも、呼んでも
蝙蝠は居ない
臍をまげて隠れてゐる
臍をまげた蝙蝠に
蚊柱は喰はせるな
早くバケツで水かけろ
螢の親父が飛んでゐる
蚊柱が立つても
蝙蝠に咄すな
呼んでも呼んでも来ない
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