とは忘れて了つても
頬白よ
己はお前が懐しくて忘られない

畑の麦が黄ばんでも、田の稲が黄ばんでも
他人《ひと》のものは喰はないで呉れよ
この村には
もう己の田畑《てんばた》はない
お前は何を喰つて暮らすだらう
虫でも拾つて喰つて生きてゐて呉れろよ

己が東京にも生活《くらし》かねて
東京に居ないと聞いても
頬白よ
決して悲しんで呉れるな
お前は達者でいつまでもこの村で暮して呉れろよ

[#2字下げ]九 猫よ[#「九 猫よ」は中見出し]

東京に来て見たものの――生活《くらせ》る的《あて》はない
郷里《くに》に家でも――あるではなし
どうしよう
木更津に――お前の伯父がある筈だ
己も一所に
連れて行つて呉れぬか
猫よ

[#2字下げ]十 夏[#「十 夏」は中見出し]

卯の花が咲く
杜鵑《ほととぎす》が啼く
夏が来た
沼の中に菖蒲《あやめ》の花も咲いてゐる

どつちにしろここには永く居られない
己に約束の夏が来た
この家は明日にも空けて返さねばならぬ
己に余裕の金があらば
せめて夏中でも
ここの葛飾で暮らしたかつた

己はもう諦めて神戸へ行かう
己がたつて行つた後《あと》で
誰が来てこの家に住むだらう
自分の家を失《なくし》て了つた己は
他人の家でも住み馴れた家は恋しい

一生涯借家住ひで暮らさねばならない己は
旅烏のやうだ
去年の夏は東京に居て今年の今は葛飾に居る
他人の知らない涙が
己の胸にはいつも一杯に溜つてゐる

これが自分のものと定《きま》つた家があつたなら
己はどんなに嬉しいだらう
また住み馴れたこの家をたつて
知らぬ他国に行かねばならぬ
己に悲しい夏が来た



底本:「定本 野口雨情 第一巻」未来社
   1985(昭和60)年11月20日第1版第1刷発行
底本の親本:「都会と田園」銀座書房
   1919(大正8)年6月10日刊
入力:川山隆
校正:noriko saito
2010年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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