ぶた+兌」、読みは「えん」、第3水準1−14−50、166−4]州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州となつて居るが、古書に九州のことを記載したものでは、この外に爾雅及び周禮の職方氏の九州がある。爾雅の九州とは冀州、豫州、雍州、荊州、揚州、※[#「なべぶた+兌」、読みは「えん」、第3水準1−14−50、166−6]州、徐州、幽州、營州、となつて居つて、禹貢に比べると青州、梁州なくして幽州、營州が多い。周禮の職方氏は揚州、荊州、豫州、青州、※[#「なべぶた+兌」、読みは「えん」、第3水準1−14−50、166−7]州、雍州、幽州、冀州、并州であつて禹貢に比べると徐州、梁州がなくして并州、幽州が多くなつて居る。從來は禹貢の九州は禹の時代の制度であり、爾雅の九州は殷代の制度であり、職方氏の九州は周代の制度であると解釋して居つたが、この外に尚書に十二州といふものが出て居る。尚書には明かに十二州の州名を擧げてゐないが、禹貢の九州の外に幽、并、營の三州を加へたものだとし、その制度は舜の時の者とせられて居る。禹貢と職方氏との文は初よりその各書にその時代を表はしてゐるが、爾雅の九州は本文には何れの時代とも書いてない。只詩の商頌に九有とか九圍とかいふことがあるので、殷代にも九州があつた證據として爾雅の九州に當て嵌めたにすぎない。この中で疑問の起ることは、爾雅にも職方氏にも梁州がなくして禹貢丈けにあることである。梁州は今の四川、雲南地方であるが、殷代并びに周代の州名になかつた所のものが、それより古い禹貢に丈けあるといふことは一つの疑ふべきことである。又その他の古書から考へても四川雲南地方の地名が初めて出て來たのは尚書の牧誓であつて、其後春秋戰國時代に楚の國が巴若くは濮の地を領したことが見え、秦が昭襄王の時に蜀の地をとつたことが見えてゐるが、それより以前に此地方の地理が詳しく判かり、而かもその西南境の暹羅地方に流るる川の名までが知れてゐるといふことは餘程解すべからざることである。斯くの如き同じ統名の下に異つた内容を有して居り、或ひは同じ事柄が幾種にも傳へられるといふことは、この以下に説くべき各種の問題にも皆あることであつて、丁度戰國頃の時代から漢代までかけて、それ等を各時代別にして説明する傾の多いことに注意しなければならぬ。爾雅、論語、孟子等に屡々夏殷周の三代にかけて一つのことを異
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