が出來るから、それで一時大に行はれるに至つた。
 阮元の議論は極めて單純なるものであつて、さうして專ら此派の爲に都合の好い例證だけを擧げてあるから、書學に關する見聞の狹い人が其の議論を讀むと、最も感服し易いけれども、其の實七八分通りまでは事實に合はないことが多いのであつて、殊に阮元の考へとして、王羲之の當時には、後世の法帖などに傳へて居るやうな二王の正書行書と云ふものは、一般に通行して居なかつたかの如く疑つて居るなどは、甚だしき間違である。近年に至つては、西洋人並に西本願寺探檢隊などの中央亞細亞發掘に依つて、西晉頃の書が現れて來る。それによつて見ると、隷書と同時に正書行書も行はれて居つた形跡が明かで、隷書と正書を一紙の中に書いて居るのもあり、又王羲之と大抵同時代の文書の中には、既に行書すらも行はれて居ることが證明される。西本願寺發掘の晉の泰始五年の木簡、漢魏の間と思はれる道行般若經、東晉の初の李柏文書などが其の的證である。是等は單に北碑に依つて議論を立てた阮元(阮元は南方の碑にも注意しなかつた)の主張の確に敗るべき點であつて、南北書派論などと云ふものが殆ど何の意味もなさぬことになる。北
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