唐の眞蹟を見ることが出來、又近頃のやうに支那の敦煌其の他西域地方からして多くの眞跡が發掘されると云ふことになつて、之を見ることが容易になつて來ると、元來は書に就ては天稟の技倆のある支那人は、必ず石刻を差措いて眞跡に赴くと云ふことが當然である。將來は必ず眞跡によつて書の一變を來すであらうと思はれる。それも澤山の眞跡が表はれて來た結果として、六朝と云ふものも必ずしも尚ぶに足らぬこと、唐代の書と云ふものゝ矢張り最も上品な工妙な域に達したと云ふことを悟り得たならば、必ず其の方面に向つて進むことは明かである。自分は斷言しても宜しい、將來は必ず支那人の書と云ふものは眞跡に向つて研究を始める。さうして兎に角其の端緒を開いたものは即ち楊守敬であると言つても宜しい。日本などで現今遲れ走せに支那の北派の書をかつぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて居るものなどは甚だ氣が知れぬ。日本には石刻以上の眞跡と云ふものが非常に澤山あつて、それ等は皆假令上手、下手に拘らず、當時の筆意をあり/\と傳へてあるものである。なに寫經生の書だなどゝいふ高論もあるけれども、唐代には書が盛んで、寫生までが能書で、後世の及
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