彌居加斯支移比彌乃彌己等《トヨミケカシキヤヒメノミコト》とあるのを見れば、彌の字はミ[#「ミ」に白丸傍点]にもメ[#「メ」に白丸傍点]にもなるので、其の區別が判然しなかつたことが分る。今日關東以北の人が、活用言のヒとヘとをよく誤り、石をエシと發音するなど其遺習である。甚しきは有りといふ活用言のリとルとが通常前者が終止言で、後者が連體言となつて居るのを、古代にはリを連體言とした例が、吉澤博士の研究せられた大唐玄奘三藏表啓の中に「恩ヲ冒セリコトニ」云々とあるので知られる。舊式の國語學者は、よく五音相通といふことで此樣の問題を解決して居るが、五音相通といへば、五音が各々獨立して成立つて居りながら、相通ずる變則があるやうに聞え、所謂訛[#「訛」に白丸傍点]りといふ原則を插む餘地があるが、自分は寧ろ古音に五音の區別が明確でなかつた爲であると解釋したい。支那の音韻學に重要なる新研究を成した顧炎武は、やはりかやうな場合に一種の原則を立てゝ、古人韻緩、不煩改字、と稱して居る。これは元來唐初の陸徳明の説に本づき、宋の呉才老などの叶音説、即ち日本でいへば、五音相通説から脱却して、古音が不明確であることを發明したのである。而して此の不明確な古音が、だん/″\明確になつたのは、五十音圖の如き者が出來た爲であつて、近畿其他の地方は其整理された五音によつて精確に發音するやうになつたが、東北地方などは依然として古音を保存して居つたのである。それ故奧州音は取りも直さず、今以て近畿地方人が古代に發した音をそのまゝ發して居る者と思へば間違ひないのである。處で此の五十音は果して梵語學から直接に國語を整理する爲に作られたか、或は其間に支那の音韻學の仲介を經て影響を來したかといふに、それは後者の方が事實であると考へられる。日本で古代梵語學の大家たる安然の悉曇藏などでも、いづれも梵語學の説明として支那の反切即ち九弄音紐といふやうなことを借用して居る。反音鈔などいふ書には此の關係を十分にあらはして居る。多分唐代に留學した日本僧が、彼邦で梵語學によつて支那の反切を整理し、三十六字母、開口、合口等のやり方、即ち後の韻鏡學の基礎が定められた状態を呑み込んで來て、其法を日本語學に適用したのであらう。して見れば正確な國語學の基礎たる五十音はやはり漢文學の影響に因て出來たものと言つて差支ないと思ふ。
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