は推古の御世、山背王等の建立にかゝる、荒れに荒れて、住僧など誠に口惜しき人物なり、かゝる例は此わたりの古寺に珍らしからざるべし。
車を還して法隆寺に至る、境内壯大にして、東西八町南北四町と案内者は語りぬ。三經院、今は大派本願寺に借して説教所に充つるとぞ、西圓堂、奉納の武器數知れず。金堂の建築は推古の世と傳ふれど、近頃の考にては天智帝の頃の再築ともいへり、その基礎を昔は盤石天より降りしとこそ尊がりしが、今は案内者さへ開けて、こは千二百年前のセメンにて候、白堊などには候はずと説明す、美術の御參考とて參觀する人多し、九鬼サンもよく出來てあると申されしとは、到る處の寺僧が誇りがにいふ言葉なり。
曇徴の筆と傳へし壁畫も、天智の世としては異人の作なるべし、博物館なる櫻井香雲氏の摸本にて髣髴を得たりしとは、又一しほの心地ぞする。堂内玉蟲厨子の扉に繪ける佛畫はまことに推古の世のものなるべし。藥師三尊、釋迦佛、金銅にて鳥佛師作のよし、所謂法隆寺式にて法輪寺金堂のもの同じさまなり、專門家は衣の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]に變化なく、顏と手とは割合に大きく、手指は鵞王手とて蹼やうのも
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