寧樂
内藤湖南
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)貌の妍※[#「女+蚩」、361−15]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゆる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
寧樂 一
浪華三十日の旅寢、このたびは二度目の觀風なれば、さまでに目新らしくも思へず、東とはかはれる風俗など前よりは委しく知れる節もあれど、六十年の前に人の物せる「浪華の風」といふ一書、温知叢書の中に收められしといたく異なれりと見えざるは、世の移りかはり、疾しといへば、疾きが若きものから、又遲しといへば遲くもあるかな、面白かりしは此の間兩度の寧樂行なり。汽車にて一時間半の道程、往くも來るも旅といふ程の用意を要せぬ便利なる代りには、大和巡りとて行李を肩に鞋を足にゆる/\と月日を消すべき支度せんもうるさければ、一寸出かけては一寸かへる、兩度の遊觀もかいなでの名處より外に目も及ばず、汽車の便よしといふ長谷、談峯さては人皇の祖と仰がれさせ給ふ神武のみかど、畝傍山の陵さへも、天氣の都合あしくて拜謁を得遂げざりしこそかへす/″\も殘念なりしか。初度の遊は、友なる神澤子と偕にしたり。折しも新落成の鐵道開業の祝ひとかにて、車賃半額の期限、今日明日と迫りし節なりければ、乘者山の如く、此頃東海道の官設鐵道さへ、發着の時限、あてにならぬ折柄、一人なりとも多く客をつめこむを得とする私設鐵道のあてにならぬは、責むる方が無理なりとぞ。天王寺停車場にやゝ一時間もまたされて、乘りは乘りしが、泰然として人の跡より出かけしに、はや車は立錐の地なく、氣の毒ながらと驛夫の案内に、荷物車の中に十數人と、囚徒然とつめ込まれしは最初の失策なりき、次なる平野の停車場にて、幸に人間の列車に乘ることを得たれど、此處にても一時間ほど後れしは、誠に驚き入たる汽車なりけり。かなたよりくる汽車にも、屋根もなき荷車に溢るゝばかり積み込まれし行屍走肉、昏暮なれば貌の妍※[#「女+蚩」、361−15]、腹の美惡もさだかにはえ分かねど、時々得ならぬ香のするは、豈に上方種族の玉の如き尤物、其の中にあらざるか、風さへ露さへ厭ひつべきを、トンネルの中の石炭くすべ、いかばかりいぶせかりけん、いたはしなんど心にも言葉にも及ばずなん。
寧樂につきしは夜の九時頃なりき。猿澤池畔の一旅店にやどる。
翌る日、春日社、二月堂、三月堂、大佛殿、殿には博覽會あり、正倉院は地下人の入るを許されぬ處とて塀越しに望みたり、時は六月の初めつかた、このわたり草の香人を襲うて、野趣故國のなつかしみあり。されど堂々たる南都七大寺の隨一たる東大寺の境内、叢芳賞心の種とならんは、盛衰の感あはれならざらんや。狹穗川を渡りて聖武帝の陵を拜し、興福寺は金堂、東金堂、南圓堂、北圓堂、境内に今縣廳もあり、裁判所もあり、師範學校もあり。
午下には藥師寺にや赴かん、法隆寺をや觀んと、神澤子と話しつゝも、思はず共にしばし黒甜の郷に入りぬ。覺むれば、雨降り出でぬ、近くは嫩艸、三笠、遠くは志貴、葛城の山々、かしここゝの聚落、煙雨に裹まれて、興福寺の五重塔、猿澤池、一しほ優なるながめなり、几帳をへだてゝ坐睡したる女を見るがごとし、強ちに我が寢惚て見し故のみにはあらず。
遊觀もかなふまじと、歸阪に決して神澤子と停車場に至れば、雨に驚いて歸りをいそぐ乘客、蜂のむれたらんが若し。掏摸の此のまぎれによき仕事せんとて、やり損ひて警官に捕へられしも見えたり。此のたびは泰然としてはかなふまじと、神澤子帽をぬぎ、時計、紙入、蝙蝠傘を我にあづけ、身構いさましく、エイヤツト聲はかけねど、人を割て入りたれども、雲霞の如き大勢、叶ひ難くや、消息いかにと氣遣ふ間に、早くも列車は笛を鳴らして立去れば、取り殘されし數百千人、烟をながめて茫然たり。神澤子汗になりて歸り、不覺を悔めど詮なし。やはか再度の敗をば取るべきと、此度は必死になりて逸早く、買ひ得たりしも、切符改めの木戸を通り越すが又一難なりき。こは我が身にもかゝることゝ、笑て神澤子の苦戰を傍觀したる氣樂さとは事かはれば、心に少し驚かざるにあらねど、直ちに一計を案じて、人のかたまりし中に身を投じて、推さるゝがまゝに進み行けば、何時とは知らず木戸口に推し出されぬ、今の世を渡る紳士とやらんいふ人々も、かくしてこそは成出でしならめと思へど、處世の上には、我にさる伎倆なし。
旅の恥はかきずてとや、旅は失策の少々あらんこそ後々までも興ある者なれ。汽車にての失策は、時の運り合せと諦めなん、三笠山の麓にてものずきにも神澤子と共に三條小鍛冶といふに立寄りて、色々見あらしたるは
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング