即ち薩摩なりとし、吉田氏は之を取りて、更に和名鈔の高城郡托摩郷をも擧げ、菅氏は本居氏に從へり。之を要するに皆邪馬臺を筑紫に求むる先入の見に出で、南至といへる方向に拘束せられたり。然れども支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の※[#「さんずい+兆」、第3水準1−86−67]兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷[#ここから割り注]多萬乃於也[#ここで割り注終わり]に當てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる處にして周防の一宮と稱せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に當れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に據有せられて、五萬餘戸の聚落を爲せしことも想像し得べし。日向薩摩の如き僻陬とも異り、又筑後の如く、路程の合ひ難き地にも
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