て、又其内地の涜盧國が倭と接界すべき理なし。此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る。
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、  對馬は宋本に對海に作れるは誤なり。一大國は本居氏が北史に據りて、一支國と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壹岐なり。末盧を肥前の松浦とし、伊都を筑前の怡土とし、奴を儺縣、又那津、不彌國を應神天皇の誕生地たる宇瀰に當つることは本居氏以來、別に有力なる異説もあらざればすべて之に從ふ。
南至[#二]投馬國[#一]。水行二十日。  之には數説あり、本居氏は日向國兒湯郡に都萬神社有て、續日本後記、三代實録、延喜式などに見ゆ、此所にてもあらんかといへり。鶴峰氏は和名鈔に筑後國上妻郡、加牟豆萬、下妻郡、准上とある妻なるべしといへり。但し其の水行二十日を投馬より邪馬臺に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説を擧げ、一は鶴峰説に同じく、二は投を殺の譌りと見て、薩摩國とし、三は和名鈔、薩摩國麑島郡に都萬郷ありて、聲近しとし、更らに投を敏の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をも擧げたるが何れも穩當ならずといへり。國史眼は設馬の譌りとして、
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