來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。
鶴峰戊申に襲國僞僭考あり、[#ここから割り注]やまと叢誌に出でたり[#ここで割り注終わり]本居氏を祖述して、更に一新説を出し、襲國は呉太伯が後なる姫姓の國にて、久しき以前より王と僞て漢に通じ、光武の建武中元二年に奉貢せしも、安帝の永初元年に生口を獻ぜしも、皆此國なり、景行帝の親征より後數度の征伐を經て、既に主を失ひつるが、神功皇后の攝政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑彌呼と
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