後漢書が魏略の文を割裂し、※[#「隱/木」」、第4水準2−15−79]括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち
[#ここから2字下げ]
又有[#二]夷洲及※[#「さんずい+亶」、第3水準1−87−21]洲[#一]。傳言秦始皇遣[#二]方士徐福[#一]將[#二]童男女數千人[#一]入[#レ]海(中略)所在絶遠。不[#レ]可[#二]往來[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※[#「さんずい+亶」、第3水準1−87−21]洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※[#二の字点、1−2−22]明白なり。
 但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く
[#ここから2字下げ]
建武中元二年。倭奴國奉[#レ]貢朝賀。使人自稱[#二]大夫[#一]。倭國之極南界也。光武賜以[#二]印綬[#一]。安帝永初元年。倭國王帥升等獻[#二
前へ 次へ
全74ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング