などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有[#二]男子一人[#一][#ここから割り注]隋書及び北史には二人に作る[#ここで割り注終わり]給[#二]飮食[#一]、傳[#レ]辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫《ヒノトバタヒメコチヽヒメ》[#(ノ)]命、また萬幡姫兒玉依姫《ヨロヅハタヒメコタマヨリヒメ》[#(ノ)]命などある姫兒に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。彌をメと訓む例は黒川氏の北史國號考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等《キタシヒメノミコト》、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等《トヨミケカシキヤヒメノミコト》、註云 彌字或當[#二]賣音[#一]也とあるを引けるなどに從ふべし。
難升米  雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣[#二]大夫難升米等[#一]詣[#レ]郡求[#下]詣[#二]天子[#一]朝獻[#上]。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年[#ここから割り注]二年とあるは誤なり説下に見ゆ[#ここで割り注終わり]に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼|以《スデ》に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
伊聲耆掖邪狗  倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ[#「イ」に傍線]、サン[#「サン」に傍線]、ガ[#「ガ」に傍線]
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