同じことなり[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]さて耳てふ尊稱の意は、美は比に通ひて、かの産靈《ムスビ》などの靈《ヒ》なるを靈々《ヒヒ》と重ねたるものなり、開化天皇の大御名|大毘々《オホヒヾノ》命と申す是なり、此を書紀には太日々《フトヒヾノ》尊とありて、垂仁卷に太耳《フトミミ》と云ふ人[#(ノ)]名もあるを以て日々《ヒヾ》と耳と同じきことを知るべし、又明[#(ノ)]宮[#(ノ)]段なる前津見《マヘツミ》てふ人名を、書紀には前津耳《マヘツミヽ》とある(又水垣宮[#(ノ)]段に、陶津耳《スヱツミヽ》とあるを、舊事記には大陶祇《オホスヱツミ》と云ふも、據あるなるべし)を以て耳《ミヽ》と云は美《ミ》を二つ重ねたるにて、見と云は、其を一つ略けるものなることを知べし云々とあり。此にて彌彌の義は明らかなり。彌彌那利は我が古書に其語見えず。景行紀十二年に御木川上に居れる賊を耳垂《ミヽタリ》といふこと見えたり。音やゝ近し。但し紀の文にては鼻垂《ハナタリ》といへる賊と相并べて出でたれば、地方君長の尊稱とも見えざれども、傳説の混入多き古記には、彌彌那利の尊稱を種として、耳垂、鼻垂の説話を生出さずとも限らざれば、姑らく此に擧げて參考とするのみ。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳※[#「革+是」、第3水準1−93−79]  梁書及び南史には彌馬升なし、蓋し脱落ならん。宋本太平御覽[#ここから割り注]近ごろ又友人稻葉氏を煩はして※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]宋活字本御覽を圖書寮の宋槧本に對校せるに四夷部の倭國の記事中三國志を引ける者は全く相同じき由を報ぜられたり因て以後は皆宋本として引用せり附記して稻葉氏に深謝す[#ここで割り注終わり]には彌馬升を彌馬叔に作れり、是れ叔を古寫本などに※[#「叔」の別体、268−18]に作るより生ぜし異同なるべし。今いづれを正しとも決し難けれども、二字の音も相遠からざれば、いづれを取らんも妨げなきに似たり。此の四の官名は邪馬臺國のものなれば、此の記事考定の資料としては、最も重要なる者なり。凡そ此の倭人傳の官名考定は從來史家の甚だ等間に付せし所なるが、余は最も之に注意し、明らさまに言へば、先づ此の四の官名を考へ得たるによりて本傳考定の鍵を得たるなり。第一の伊支馬といへる語には神名帳には大和國平群郡に往馬坐伊古麻都比古《イコマニマスイコマ
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