後漢書が魏略の文を割裂し、※[#「隱/木」」、第4水準2−15−79]括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち
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又有[#二]夷洲及※[#「さんずい+亶」、第3水準1−87−21]洲[#一]。傳言秦始皇遣[#二]方士徐福[#一]將[#二]童男女數千人[#一]入[#レ]海(中略)所在絶遠。不[#レ]可[#二]往來[#一]。
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の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※[#「さんずい+亶」、第3水準1−87−21]洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※[#二の字点、1−2−22]明白なり。
但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く
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建武中元二年。倭奴國奉[#レ]貢朝賀。使人自稱[#二]大夫[#一]。倭國之極南界也。光武賜以[#二]印綬[#一]。安帝永初元年。倭國王帥升等獻[#二]生口百六十人[#一]。願[#二]請見[#一]。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無[#レ]主。有[#二]一女子[#一]。名曰[#二]卑彌呼[#一]。云々
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此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之が三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。
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附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。
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已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らる
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