後に殘つて居つた皇室とか公家とかにも革新機運が行亙つて來たのが、丁度此時代であります。さうして是は不思議にも大覺寺統即ち南朝といふやうなものと關係を持ちまして、後宇多天皇の復古思想から、次には其延長である所の日本中心思想といふものになつて、さうして日本文化獨立の根本をこゝに築き上げたのであります。このことは私の國史に對する淺い智識で考へましても、多少の材料を以て證據立てることが出來るのであります、それで此の機會において斯ういふお話をしたのであります。
所が面白いことはこゝに一つの著しい事件を生じて來たのです、丁度南北朝の中ごろ以後南朝はよほど衰微して居つたが、兎に角皇子方が東西にお働きになつて、東には宗良親王、西には懷良親王が征西將軍として九州にお出でになつた。其時代に支那では元明の革命があつて、蒙古が亡びて明が起つた。その時に明の使者が九州に到着したが、支那人の書いたものによると、其時征西將軍は自分が日本の國王だと言つて支那の使節に應對した、處が支那の使者は京都に又持明院統の天子があることを聞いて、そこへも使者をやつたといふ事が書いてありますが、とにかく其時支那では日本國王の不恭を
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