てありますが、弘法大師の傳記も御自筆で書かれて居ります、斯ういふことは即ち教法の先祖である所の弘法大師を慕つて居られたので、純粹なる高祖の教規通りの古に復さうといふ御考から出來たのであつて、末世の僧侶の程度に滿足せられず、密教の根本を究め、先祖のしたことを復興しようといふ御考からであるといふことが分ります。是がすでに革新の機運を促す所のものであります。
昔の社會上の事情といふものは今日と違ひまして、何でも新しい事を開拓しようとするには、是は支那でも日本でも同樣で、改革論者の多くは復古といふことを考へるのが通例であります。復古といふことが即ちいつでも革新論であります。後宇多天皇が教法上の復古といふことを考へられたのは即ち一つの革新であつて、是が當時の現状に滿足せられない天皇の革新思想を持たれた證據になるのであります。さうして是は後醍醐天皇の御學問、御考への上にも大變な關係を持つたであらうと考へます。近く明治維新といふものを御覽になつても分りますが、維新以前から日本に漲つてゐた思想は即ち王政復古といふことであります、そしてその王政復古がいよ/\爲し遂げられたところが、今度は開國進取といふことに變つて來たのであります、いや變つて行つたのではありませぬで、近頃の言葉でいふとやはり王政復古の延長であります。つまり後宇多天皇のお考へになつた學問上の復古思想といふものは、もう一つ進んで行くと、後醍醐天皇のやうに更に進んだ思想になるといふことは是はきまりきつた事であらうと思ひます。後醍醐天皇のことを申上げずに斯ういふ風にばかり申しても分りにくいでせうが、それはあとでだん/\に申上げるとして、この後宇多天皇の復古思想といふのがよほど大事であることを御承知願ひたいのであります。
それから次の時代になりまするといふと、後宇多天皇のお子さんの後醍醐天皇が出られますが、不思議にも亦さういふ機運が大覺寺統にも、又持明院統にもあつたものと見えまして、どちらにもさういふ思想を持つた方が出て居ります。即ち北朝――持明院の方においても、花園天皇といふやうな方が出られて、後醍醐天皇と同じやうに革新的思想を持たれた樣に考へられるのであります。それがよほど不思議な現象であつて、ともかくも其時代といふものはよほど革新の機運が漲つて居つたといふことが分ります。併しこの革新機運は必ずしも最初から日本の文化の獨
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